論理の嫌いな日本人(2) 日本人の議論の仕方
前回、日本では討論番組が流行らないこと、そもそも日本人は論理を組み立てていくプロセスそのものが苦手か、少なくとも嫌いに見える、ということを書いた。
どちらかというとこの前回の記事は前置きで、今回の記事-ネットの内外で繰り広げられている日本人の議論のついて-が本題だ。筆者は「平和主義を唱える人たちへ」や「右翼と左翼、理論と感情」などで、何度か特に左寄りの人は論理的な組み立てが苦手なようだ、と書いたのだが、コメント欄でご指摘いただいたとおり、右寄りな人が特別論理的に議論をしているようにも見えない。
挙句プロの「評論家」にまで似たような傾向が見えてしまうと、どうもこれは右左の問題じゃないなぁと思えてくる。そこで、若干昔の記事と内容がかぶるのだが、筆者が感じている「日本人の議論の仕方」についてまとめてみることにしたい。
論理に頼らずに議論をしようとする人は大体以下のような特徴を持つ。
・自分の価値観をそのまま主張にしてしまう
「右翼と左翼、理論と感情」でも書いたことだが、ロジックが弱い人は自分の「想い」をそのまま文章に載せてしまう。だから、そこに反論されると非常に大きなストレスを感じる。自分の人格そのものを否定されてしまうようなものだからだ。批判されるとヒステリックに「キレ」て、数日後にはサイトを閉じてしまう、という人たちはよくいるが、おそらくはこの手の人々なのではないだろうか。
・「主張」を批判するのではなく、「主張した人」を批判する
上のケースの裏返しだ。誰かが色々考えてたどり着いた結論が、自分の価値観からは受け入れがたいものだという事は良くある。だからといって、「そんな意見を口にするあなたが許せない」といった批判をするのはナンセンスな話だ。例えその主張が非道に感じられたとしても、その主張を口にした人が非道なわけではない。その人の人格と、主張とは本来完全に別のものだ。全ての主張は本来何らかの前提から論理的に導かれるもののはずで、そこに人格の介入する余地などないからだ。
だから、あらゆる反論は論理の組み立てミスを突くか、前提条件の設定ミスを突くべきなのだが、ネットの内外を問わずそういう議論はあまり多くない。
情けないのは、プロの評論家にすらこの傾向が見られることだ。先日ネットを眺めていたらこちらの方が自分のサイトに寄せられる批判・非難に対して、『匿名者の私への批判や批評はここではいっさい認めない。日本の社会や文明や私以外の者を批判するときはここでの匿名が許されてもいい』と書いている。
「自分を批判するな」というのは分かる。それは各サイトの運営方針の問題であり、外部がとやかく言うことではない(それにしても少々かっこ悪い話だが)。しかし、それならなぜ実名を名乗ったときだけは批判を認めるのだろうか?この方もどうやら人格とロジックとをちゃんと分離できていない。ロジックの正しさと、それを発した人が誰かとには何の関係もないのだ(まぁ、想像するに彼への非難が限りなく人格攻撃に近かったので、こういうキレ方をしたのではないかとは思うのだが)。
・結論だけに興味を持ち、途中経過は無視する
前回書いた「投資判断の結論だけに興味を持ち、どういう理由でそのような判断に至ったかに興味を持たない投資家」が一例だ。あらゆる結論には前提条件が存在する(それを主張する本人が意識しているかどうかにかかわらず)。そこをすっ飛ばして結論だけ鵜呑みにすると、大概どこかで落とし穴にはまる。で、落とし穴にはまった人はその投資判断に対して感情的に反発したり、前回のコメント欄で次郎氏が指摘されたように猜疑心ばかりをたくましくしたりするわけだ。
・情報量をひけらかす
前回の記事に、かみぽこ氏が「朝生」の議論について「田原氏は議論を見せたいのではなく、『論客同士に知識のひけらかし合いをさせて、どっちがよく知ってるかを視聴者に見せたい』だけなのではないか」、とコメントを下さった。まぁ、情報を多く持っている事は大切なことだ。しかし、重要なのはそれがどれだけ議論に関わりがあるかであって、情報は「お前は○×や□△を知っているのか。知らないお前に議論する資格はない/色々知っている俺の意見の方が正しいんだ」という威嚇のための道具ではない。
・文章は読まずにスキャンする
無関心な分野の文章をスキャンするのは当然だ。筆者もそうしている。しかし、それなりの興味分野でさえ、文章を読まずに「スキャン」する人が多い気がする。結局、こういう人たちは「書き手が自分の敵か、味方か」を判断するためだけに文章を読んでいるのだろう。
論理的な組み立てが出来ない人は、他人と合意することが出来ない。議論の際には絶えず自分の価値観がむき出しになっているからだ。自分の価値観はそうそう簡単に譲れるものではないし、譲るべきものでもない(だから「日本人の議論は感情的になる」と言われることになるのだが)。分かり合うことが出来ない以上、読むという作業は同じような事を感じている(考えている、ではない)人を見つけ、そうでない人をより分ける「仲間探し」にならざるを得ないのだ。
論理的であることの難しさ
では、なぜ人々はこう非論理的になってしまうのか?答えは簡単だ。他人のロジックをそのまま受け止め、咀嚼するという作業がえらく面倒くさいからだ。特に、その考え方が今まで自分が聞いたことのない類のものであれば、そのロジックを理解するという作業には苦痛さえ伴う。
大学に入って初めてテキストを開いたときのことを思い出していただきたい。いつまでたっても読み進むことができず、いらいらして本を放り投げた経験はないだろうか?あれが初めてのロジックを咀嚼する苦痛だ。
しかも、困ったことに世の中には実に多様な考え方があり、我々はそれら全てのロジックについて予習しておくことはできない。で、運悪く自分とまったく違う考え方の持ち主と出会ってしまい、更に運悪く議論することになってしまった場合、相手の考え方を細大漏らさず理解できるだろうか?しかも、文章上の議論ではなく、リアルタイムで話しながら。筆者には無理だ。そこまでの理解力があるとは思えないし、集中力も続かないだろう。
それを考えると、論理を組み立てるのを嫌って、上で列挙したような行動に走ってしまうというのはなんら不思議なことではない。
論理的であるための武器を鍛えよう
しかし、だ。それでも初めてのロジックを相手に論理的な議論を展開するのは決して難しいことではない。政治学でも経済学でも何でもよい、なにか1種類のロジックを鍛えておけば、それはワイルドカードのようにどんな議論にも援用可能になるのだ。
実のところ、筆者は政治学や社会学のバックグラウンドを持つ人と話をするときに、必ずしも彼らの考えを100%理解しようとしていない。経済学の考え方で彼らの話すことにうまく当てはまりそうなものを探して、自分に理解しやすい形に置き換えて分かった気になっているだけだ(どうも、相手側もこちらの考えを政治学の枠組みで理解しているらしい)。詐欺っぽいと思われるかもしれないが、これがなかなかどうして有意義な議論になるのだ。もともと根っこは同じ学問なので、共有するところが多いからかもしれない。
手前味噌のようで恐縮だが、特に経済学は汎用性が高いと思う。面倒でも1冊入門書を読みこなすだけで、驚くほど議論をするのが楽になるはずだ。ついでにゲーム理論の本も1冊読めば、政治学や社会学の分野の議論にもかなり幅広く対応できる(経済学のテキストは伊藤元重の入門経済学を薦めたい。これほど簡にして要を得たテキストは他にない。これを3回読み通せばそこらへんの自称経済評論家なら論破可能だ)。
逆に言うと、日本人が論理に弱いように見えるのは、別に日本人の「民族性」がそうだからではなく、高校や大学で武器となる論理を鍛えることを怠ったからではないだろうか。
日本には論理的な人が少ないのではなく、この武器を持っている人が少ないので、大衆の興味の「最大公約数」を狙わざるを得ないマスコミは討論番組にすら「非論理的な」味付けをせざるを得なくなったのだ、と考えることもできる。
次回はあとがきに代えて、この「武器」をジャーナリストが持っている国の話を。
本日のまとめ
他人のロジックを真正面から受け止めるのは非常に面倒くさい作業だ。
その結果、ロジックを持たずに議論する人が増え、議論が不毛な感情的対立の場と化してしまった。
何かひとつ学問を修めておくことは、論理的な議論をするための強力な武器になる。
追記:
トラックバックを下さった月ナル者さんが、「極東ブログ」で名高いfinalventさんと毎日新聞記者の白戸さんの議論を紹介されています。詳しくはこちらをご覧頂きたいのですが、ここでの議論とも重なる点がいくつかありますので、リンク先だけここにも記しておこうと思います(その1、その2、その3。いずれもコメント欄)。


Comments
>その人の人格と、主張とは本来完全に別のものだ。
>全ての主張は本来何らかの前提から論理的に導かれる
>もののはずで、そこに人格の介入する余地などないからだ。
おそらく、この前提を是と取るか、非と取るかで全然話が
違ってくるでしょうね。
是と取ったのが西洋文明、非と取ったのが東洋文明、
そんな話を聞いて、面白いなと思いました。
もともと非の文化にある東洋人は、資本主義の名の下で
無理に西洋文明にさらされることで、その違いを肌で
知る機会に恵まれているのかな?と今は思っています。
Posted by: ひろ | October 18, 2004 at 10:05 PM
ひろさん、コメントありがとうございます。
東洋、西洋で分けてしまってよいものかどうかは多分に議論の余地があるとは思いますが、主張は人格的な要素は含むものだ、乃至はむしろ含むべきだ、というスタンスは当然ありうるでしょうね。
この記事では、このようなスタンスは議論をする上では邪魔だ、と書いたわけですが、異なる論点設定をすれば、逆にこのようなスタンスが肯定されることもあるかもしれませんね。
Posted by: 馬車馬 | October 19, 2004 at 09:48 AM
こんにちは~馬車馬さん。
>次回はあとがきに代えて、この「武器」をジャーナリストが持っている国の話を。
古代ギリシャのレトリック理論まで遡りますか?
三百代言のソフィストになるのは容易いが、いずれアリストテレス御大が山の如く立ち塞がると・・・(笑)
今回も秀逸な論文になりそうですね。
Posted by: 次郎 | October 19, 2004 at 12:25 PM
次郎さんどうもです。
いやぁ、レトリック論どころか、次回は話の都合上おっぱいを連呼する記事になる予定です。ソフィスト批判なんぞ出来るわけもないって感じですね・・・(笑)
Posted by: 馬車馬 | October 21, 2004 at 08:17 AM
馬車馬さん、こんにちは。
TBの報告に来ましたら、やや、本文にもリンクが(笑)。
ご紹介、ありがとうございます。
>これがなかなかどうして有意義
そうですよね。私は生物学系の人間なのですが、他分野の方との議論の際はこれを行っております(正確にはそれしかできない)。唯、誤解を積み重ねていくことを避けるために、「これは、〜ということかな。」と適宜、自分の使い慣れており且つ相手に通じる言葉で表して、解釈のずれを補正しつつ、話を展開しております。
あと、ゲーム理論についての入門書もご紹介頂ければいいな、と思います。以前から興味はあるのですが、断片的にしか捉えていないもので。
Posted by: Giraud | October 21, 2004 at 11:55 AM
Giraudさん、コメントありがとうございます。
確かに、適宜確認を入れるという作業はよくやりますね。その確認作業それ自体が議論になったりもしますが。それもまた面白いものです。
ゲーム理論の入門書ですが、
読み物としては梶井厚志「戦略的思考とは何か」、理論の入門としてはギボンズ「経済学のためのゲーム理論入門」が一般的だと思います。最近ではOsborneの「An Introduction to Game Theory」が評判が良いようです。応用例も豊富で使いやすいと友人が言っておりました。まだ新刊なので邦訳は当面でないと思いますが・・・
Posted by: 馬車馬 | October 23, 2004 at 10:33 AM
馬車馬さん、こんばんわ。
遅くなりましたが本のご紹介ありがとうございます。
取り敢えずギボンズの訳本にチャレンジすることにしました。
Posted by: Giraud | October 27, 2004 at 10:14 PM
ゲームの理論って、たとえば(少し古い本ですが)鈴木光男『ゲームの理論』(勁草書房)なんかでもいいのでしょうか? 二人零和ゲームのミニ・マックス定理がちょうど真中辺りに書かれている程度の書物ですが。
ただ、この書物は、後半を読もうと思うと、位相空間(の初歩)とか、不動点定理(値域が定義域の中にあるような写像f(x)で、f(x)=xとなるxが存在する、というようなもの)などを使うので、結構面倒ですが・・・・
Posted by: roi_danton | October 28, 2004 at 01:02 AM
Giraudさん、がんばってください。ギボンズは分量が少ない割りには、必要な理屈がちゃんと網羅されています。理系のGiraudさんならすぐ読めてしまうのではないでしょうか。
roi_dantonさん、鈴木光男さんの本は見たことがないのですが、真ん中あたりでminmaxであれば、そのあとで不完全情報と不完備情報の話があるはずですから、十分網羅されていると思います。とりあえず、シグナリングゲームやチープトークゲームに触れられていれば、一般的なゲーム理論を理解するには十分だと思います。
後は難易度ですね。不動点定理はナッシュ均衡の存在証明に使いますが、特に理解しなくても十分コンセプトは理解できると思います。まぁ、不動点定理は経済学の均衡概念そのものなので、分かっておいても損はしないのですが、後回しにしてまったく差し支えありません。がんばってください。
Posted by: 馬車馬 | October 28, 2004 at 08:35 AM
馬車馬さん、解説有難うございました。
あの本は、学生時代に経済学部の友人と自主ゼミで使用した本で、minmaxのすぐ後くらいで就職活動その他で中止になってしまっていた本でした。とりあえず、続きを読んでしまい、足りない部分があればギボンズその他の本で補おうと思います。
ところで、不動点定理は収束の速さを保証するものではないので、系が動的な場合は、時々刻々変化する均衡点に引きずられてさまよいつづけるのではないか、と(算数屋の)私は気になっています。
Posted by: roi_danton | October 30, 2004 at 02:08 PM
roi_dantonさん、すいません、コメントが遅れました。
おっしゃるとおりで、昔は「だから均衡点に集中するのは間違いだ」とする不均衡動学なる分野もあったようですが、結局使い物になる理論は生まれてこずに廃れていったようです。
ゲーム理論の場合は、各プレーヤーは自分と他人の戦略を正確に分析して、最初から均衡(経路)上の選択を行うとされるため、均衡への収束という考え方はあまり重視されません(Sequential equilibriumやTrembling-hand perfect equilibliumなどで均衡上にない戦略も考慮に入れてはいますが)。
一般的には、経済学では経済はもともと均衡の近傍にあると仮定するか、絶えず均衡解を達成しているものだと考えるケースが多いと思います。そのような仮定をおいてもなお「ゆっくりと均衡へ向かって動くように見える現象」を説明できるのだ、とする研究も多数あったはずです。まぁ、どこまで仮定として割り切るかは難しいところですよね。
Posted by: 馬車馬 | October 31, 2004 at 11:20 PM