哲学は数字に宿る
札割れの記事を書いてしまったので間が空いたが、「ODAという自己満足」の続きを書きたい。
前回、日本のODAが事実上自己満足のためだけに行われているということ、そのせいでODAにいくら使ったかだけが問題となり、その成果の検証は完全におろそかになっているということを書いた。これは右から見ても左から見ても結構ろくでもない状態だ。ODAが日本の国益にどのように貢献しているかについても、ODAが途上国経済にどれだけ役に立っているかも、今の日本は無関心だということになるからだ。
これは世界的には比較的珍しいケースであるように見える。もちろん、ODAは自国の国益のためだけにやる!と公言するような恥ずかしい国はあまりないが(そういうのは裏でこっそりやればよろしい)、各種援助がどの程度途上国の社会経済に影響を与えているかということは、普通どの国でも議論の対象になる(だからJubilee Campaignのようなものが出てくるわけで)。「世界から貧困を撲滅せよ」というスローガンがマジメに議論されているわけだ。
ところが、日本ではこれがない。最貧国で栄養失調に苦しむ赤ん坊の姿に盛り上がることはあっても、そういった子供を生み出している社会システムの問題、それに対する処方箋についての議論が社会的に盛り上がったことは今までないのではなかろうか(あったとしても、せいぜい政治家の汚職がいかんとか、そういう瑣末な問題に短絡しておしまいになる)。その辺り、日本の左翼は木を見て森を見ない類の人たちが多すぎる。
そこで、今回は「ODAが途上国経済にどの程度役に立っているか」が現状どう検証されていて、どうあるべきなのか、といった辺りを考えて見たい。筆者の好みはむしろ「ODAがどう日本の国益に反映されているか」なのだが、どの程度対象国の利益になっているのかも測れない今の状況では、日本の国益についての議論など夢のまた夢だ。
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