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<title>マーケットの馬車馬</title>
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<title>価格規制と数量規制：関東の電力不足対策</title>
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<description>今回の震災で被害に会われた方々に心よりお見舞い申し上げます。過去に例の少ない悲惨...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>今回の震災で被害に会われた方々に心よりお見舞い申し上げます。過去に例の少ない悲惨な被害と、過去に例の無い多くの映像記録とに圧倒されつつ、色々と思うこともありました。しかし私の個人的な感情には衆目に晒すほどの価値はありませんので、ここでは自分が書けることを書いていこうと思います。</p>

<p></p>

<p><br />
少し前にニュースを読んでいたら、民主党の岡田幹事長が「計画停電に変えて価格制限を行うべき」と発言したらしい。確かに、現状の輪番停電はあくまでも緊急避難であって、今後より効率の良い方法を考えなければならないことに疑問の余地もなければ議論の余地もない。</p>

<p>ただし、それは「価格制限（価格メカニズムの活用）の方が議論の余地無く望ましい」という事ではない。価格メカニズムの活用は、経済学が得意とする効率的で「エレガント」な解ではあるが、非効率で野暮ったい数量統制（例えば配給制）の方が最適になるケースもあるということを、経済学は教えてくれている。</p>

<p>そこで、今回は少し趣向を変えて、少し経済学を表に出したエントリーを書いてみたい。もちろん、経済学を勉強していない人にも分かるように書くつもりだが、そうは言っても退屈に思う読者の方もいるかも知れないので、今回は「今日のまとめ」を最初に持ってくることにした。興味のない方はこれだけお持ち帰り頂きたい。</p>

<p></p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>価格規制は効率性に優れるが、数量規制は確実性に優れる。(注1)</p>

<p>価格か量か、という単純な構図は存在しない。</p>

<p>少なくとも大口消費先（工場など）については、数量規制の方が望ましい。</p>

<p>価格メカニズムの活用は、数量規制から少しずつ移行していく形がよい。そのためには、電力消費量が一定水準を超えたところで料金が跳ね上がる仕組みが便利。</p>

<p>良心に支えられた現在の節電行動は、価格メカニズムの導入で消え去る可能性を考慮すべき。<br />
</p>]]><![CDATA[<p><br /><br />
<br /></p>

<p>さて、昔から、市場の「神の見えざる手」に任せるよりも、政府が介入した方がうまくいくケースというのはたくさんあった。「<strong>どのようなケースで政府介入が必要か</strong>」は昔<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2005/12/post_957c.html">こちら</a>で書いたので繰り返さないが、もう一つの大きな問題は「<strong>どうやって介入するか</strong>」にある。そして、経済学では、主に2つの方法が検討されてきた。1つは<strong>価格規制</strong>。たばこは健康に悪いから高税率をかけて喫煙者を減らそう、というのがこれだ。<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_d432.html">例のサラ金の上限金利設定</a>もこれに含まれる。もうひとつが<strong>数量規制</strong>。戦時の配給制、各種許認可、最近であれば二酸化炭素の排出規制、そして今回の計画停電がこれにあたる。</p>

<p></p>

<p><br />
<strong>電力需要の決まり方</strong></p>

<p>まず、価格規制と数量規制がどう電力需要に影響を及ぼすのかを考えよう。<strong>電力需要は、一人一人の消費者が電気を使うことでどれだけの「幸せ」を得られるか、その幸せが電気代を上回っているかどうかで決まる</strong>。もし40Wだけ電力を使うことが出来たら何を優先するか。恐らく、照明と冷蔵庫。これらから我々が得られる幸せは大きい。夏であれば、これに加えて冷房(+100W)も必須だろう。例え電気代が高くとも、電気を使わずにはいられない。一方で、もし秋であれば、冷房からそこまでの幸せは得られない。もし夏と秋の電気料金が同じであれば、夏の電力需要は増え、秋のそれは低下する。下の図はそれを図解したものだ。</p>

<p><a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden1_2.jpg"><img class="image-full" alt="Teiden1_2" title="Teiden1_2" src="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden1_2.jpg" border="0"  /></a></p>

<p>さて、ここで夏の電力需要を秋並に減らしたいと思ったらどうすればいいだろう。現実性をとりあえず無視すると、エアコンの使用を禁止する法律を作ったりして、各世帯の消費電力を強制的に秋の水準に落としてしまえばよい。これが数量規制という奴で、現在の輪番停電もこれの一種だ。もう一つは、夏場に電気料金を値上げしてしまう方法。電気代が高すぎて、とてもエアコンの電源は入れられない。</p>

<p><a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden2.jpg"><img class="image-full" alt="Teiden2" title="Teiden2" src="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden2.jpg" border="0"  /></a></p>

<p>ここで重要なのは、このきわめて単純な構図では、<strong>価格規制も数量規制も全く同じ結果になる</strong>と言うこと。価格規制ではエアコン禁止などという無茶な命令はしないが、結局消費者はエアコンを止めるので、結果は変わらないのである。</p>

<p>では何故経済学者は数量規制よりも価格規制を好むのかというと、<strong>数量規制というのは、人々に違いを認めない硬直的なシステムになりがち</strong>だからだ。上の図では「夏は冷房必要だよね」という、日本人の平均的感覚を前提に話をしたのだが、実際には日本人にも色々いる。扇風機でもいいや、という人もいるだろうし、逆にお年寄りの場合エアコン無しでは猛暑を越せないという人だっているだろう。それを一律に「エアコンは1日1時間まで」とかやってしまっては、お年寄りは困る。実際、現在の輪番停電でも、病院から信号機まで一律に巻き添えを食らっているわけだし。</p>

<p><strong>価格規制は、このような多様性に強い</strong>。下の図のように、エアコンがどうしても必要な人にとっては安く思え、そうでない人には高すぎると感じられるような、そういう価格に電気料金を設定することで、本当に電気を必要としている人にだけ電気を供給し、それ以外の人の電力消費を削ることが出来る。そして、平均値でみれば、数量規制と同じ電力需要を達成できるという寸法だ。数量規制でこれをやろうとすると、各世帯とじっくり面談した上で、一世帯ずつ配電盤を切り替えなければならない。<strong>価格規制は効率性に優れる</strong>とは、こういう意味である。</p>

<p><a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden3.jpg"><img class="image-full" alt="Teiden3" title="Teiden3" src="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden3.jpg" border="0"  /></a></p>

<p></p>

<p><br />
<strong>価格規制はなぜ難しいか</strong></p>

<p>ただし、<strong>価格規制が効率的なのは、適切な価格を設定できた場合</strong>の話だ。冷房を本当に必要にしている人だけがエアコンのスイッチを入れたくなる電力料金とは一体いくらなのか？1kw当たり40円？それとも100円？高すぎては誰もエアコンが使えなくなるし、安すぎては大規模停電を引き起こしかねない。そもそも、冷房を本当に必要とする人の数自体、暑い日と寒い日とでは変わってくる。ということは適正な価格自体毎日変わるし、もっと言えば毎分異なる。</p>

<p>通常であれば、たまに料金が安すぎたり高すぎたりして電力需要が上下しても、平均的に見てうまくいっていれば問題ない、と考えるべきだろう。しかし、今回は事情が違う。<strong>例え一度でも需要が供給を上回れば、大規模停電を引き起こす恐れがある</strong>。そのコストを考えると、「大規模停電は10回ほど起きたが、全体的には価格規制はうまく機能した」という主張は、せいぜい嘲笑の的になるだけだ。</p>

<p>更に悪いことに、かかったコストにマージンを上乗せして価格を決めてきた<strong>東京電力には、需要を見極めて価格を決定するという経験が足りない</strong>。おそらく、価格を変えればどう需要が変化するかというデータすら不足しているだろう。或る程度の試行錯誤を繰り返して経験とデータを蓄積していくしかないが、今の東電にはその余裕、すなわち電力の供給余力が決定的に足りない。</p>

<p>もう一点付け加えると、<strong>このような価格メカニズムに失敗した後、謝罪して全てを元に戻しても、もはや今までどおりの節電を消費者に期待できない</strong>かもしれない。レヴィット=ダブナーが「ヤバい経済学(Freakonomics)」で、子供を定刻までに迎えに来ない親に業を煮やしたイスラエルの保育園の話を紹介している。この保育園では、経済学者のアドバイスを容れて、遅刻した親に罰金を科すことにした。1回につき3ドル。しかしこの罰金はどうやら少額過ぎたようで、多くの親が堂々と遅刻をするようになってしまったらしい。その後この罰金プログラムは取りやめられて下の仕組みに戻ったのだが、親の遅刻は元の水準には戻らなかったという。ポイントは2つ。適切な価格設定は言うほどに易くはないということ。そして、<strong>良心というのは、一度貨幣価値に変換してしまうと、もう一度良心に戻すことは出来ないらしい</strong>ということだ（注2）。東京電力が節電の代わりにより高い料金を要求し始めたとき、つましく節電を続けてきた日本人の行動はどう変わるのだろうか。興味深い問題だが、今の日本にそれを試す余裕はあるのだろうか？</p>

<p></p>

<p><br />
<strong>数量規制に出来ること・出来ないこと</strong></p>

<p>実は、適正な価格を知らないまま、適切な価格規制を行うことは出来る。<strong>数量規制を取引可能にしてしまえばいい</strong>のだ。とりあえずみんなに一定の電力を割り当てて、それ以上の電力が必要な人はそうでない人から買えばよい。そこで決まった値段が、適正な価格になり、<strong>結果として数量規制は適正な価格規制と同等の効率を達成する</strong>。要は、二酸化炭素の排出権取引の受電権版を作ればよいのだ。</p>

<p>もちろん、「4丁目の鈴木さんから3時間分の電気を買ったので今日はうちは停電しないで」というのは現実には不可能だ。そもそも、関東圏3000万人が参加する取引市場など創設できるわけも無い。ただし、受電量をきめ細かくコントロールできる大口消費者なら、このような取引は可能だ。実のところ、このような取引はすでに行われている。こちらのニュースにあるような、「計画停電から輪番操業へ」というやつだ。<strong>メーカー各社で計画的に操業日を配分して全体の消費量を抑えよう、というのは、受電権の物々交換に他ならない</strong>。取引価格が表に出ないので分かりづらいだけだ。これに金銭の授受が絡めば立派な取引になる。</p>

<p>まだこの輪番創業の試みがどれだけうまくいくかは分からないが、これがある程度軌道に乗るのであれば、<strong>大口需要者については数量規制の方が望ましい</strong>と言えるだろう。なにしろ、数量規制には価格規制にはないメリットがある。それは、量で規制しているので、電力需要がどう変化しようが、電力需要が限界を超えることは絶対にないと言うこと。<strong>確実性こそが数量規制のメリット</strong>なのだ。<strong>需要を読み間違えただけで大規模停電になりかねない価格規制とは安定感が違う</strong>。</p>

<p></p>

<p><br />
問題なのは残りの小口の一般消費者だが、技術的に可能であるならば、各世帯それぞれで一定以上の電力を使うとブレーカーが落ちてしまうような数量規制が当面一番確実なのではないかと思う。というか、数量規制で輪番停電を回避しようとすれば、薄く広くやるより他に方法がない。</p>

<p>ただし、これを実行するには、もしかしたら各世帯の配電盤をひとつひとつ修正して廻る必要があるのかも知れない。それにかかるコストと時間が現実的ではない、という場合、実は価格規制を用いることで同じ結果を出すことが出来る。「お前×××したら1おくまんえん払ってもらうからな！」というのは子供の常套句だが、これは「×××したら罰金として1億万円を申し受けますので、契約書にサインを」という意味ではなく、「てめえ×××するんじゃねぇぞ」という意味である。つまり、<strong>法外な料金を請求することと、数量を直接制限することに違いはない</strong>。一定以上の電力を使うことを禁止する代わりに、一定以上の電力使用に高い料金を請求すればよいわけだ。請求書を書き換えるだけで、配電盤の調整を省略できるのだから、これは相当に安上がりな方法だ。<strong>価格規制が効率がよいのは、実行が容易という点にもある</strong>。</p>

<p>この場合、<strong>適正な価格などというものを考えなくて良い</strong>のも利点だ。ただ法外でさえあればそれでよい。売上はそのまま国庫に回して、「電気は必要だがお金がない」人に支給すればよろしい。そして、電力に余裕があるようなら、そこから電力需要が伸びてくるまで、少しずつ値段を下げていく。そうすることで、大規模停電のリスクを抑えつつ、最適な価格を探ることが出来るというわけだ。これは、<strong>数量規制から緩やかに滑らかに価格規制にシフトしていく</strong>と言うことでもある。</p>

<p><a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden4.jpg"><img class="image-full" alt="Teiden4" title="Teiden4" src="http://workhorse.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/04/05/teiden4.jpg" border="0"  /></a></p>

<p>ここまで辛抱強く読み進んで下さった読者の方にはもう明らかだと思うのだが、<strong>価格規制と数量規制はそれぞれメリットデメリットがあり、単純にどちらが望ましい、と断言することは難しい</strong>。そもそも、すぐ上で見たように、数量規制と価格規制の区別を付けることすら難しい場合すらある。筆者個人は大口需要者とそれ以外で違う仕組みを採用するのが望ましいと思うが、他力本願なことを言えば、上の議論を全て吹き飛ばす技術革新が今回の試行錯誤から生まれてくれないものかと祈っている。経済学は与えられた条件の中でどうやりくりをするかを考える学問であり、あちらを立てればこちらが立たず的なジレンマから自由になることは不可能ではないが難しい。技術革新というのは、そのジレンマを根本からひっくり返すポテンシャルを秘めているのだから。</p>

<p></p>

<p><br />
<strong>注1:</strong>　価格規制が効率的で数量規制が確実だ、というのは、原則として今回の電力不足問題を念頭に置いての話。価格・数量規制についての古典である（らしい） Weitzman(1974)では、数量規制と価格規制のどちらが望ましいかは、限界効用・費用曲線の傾きと、限界費用関数の不確実性の度合いによって決まる（面白いことに、限界効用の不確実性は無関係になる）。今回の議論でWeitzmanのモデルを使えないのは、電力消費が一定量を超えると突然死重損失が跳ね上がるという特殊な構造になっているため。この一点から言っても、電力需要それ自体を規制する数量規制の有利さが分かると思う。数量規制の非効率さは言うまでもないが、今回のケースでは、効率性はsocial welfareを測る唯一の尺度ではないように思う（効率の定義にもよるが）。</p>

<p><strong>注2：</strong>経済学的な用語を使えば、複数均衡間の選択は誰にも出来ないのだから、現状それなりに良い均衡にいるなら、敢えてその均衡を壊す選択をすることはない、ということになる。</p>

<p></p>

<p>参考文献：<br />
MZ Weitzman (1974), "Prices vs. quantities", Review of Economic Studies.<br />
</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2011-04-05T10:28:22+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-01d3.html">
<title>奨学金の最適デザイン</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-01d3.html</link>
<description>昨今の―とは言え、気分的には20年近く続いている―不景気で、奨学金の返済に支障を...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>昨今の―とは言え、気分的には20年近く続いている―不景気で、<a href="http://www.j-cast.com/tv/2010/09/07075267.html">奨学金の返済に支障を来している人が増えている</a>ということであります。</p>

<p>教育というのはその後の人生で重要な意味を持つのは明らかです。そして、機会の平等という観点から言って、親の所得が低い人たちにも平等に高等教育を受けるチャンスが与えられるべきであり、そのためには奨学金の果たす社会的役割は大きいということを否定する人は少ないでしょう。この奨学金の返済負担が大きすぎるとすれば、今後奨学金の利用に二の足を踏む人も増えてくるでしょう。それを考えると、「生活がきついなら返済は免除されるべき」「もっと給費の奨学金を増やせ」という意見は、間違いなく「正しい」と言えるでしょう。</p>]]><![CDATA[<p>さて、世の中は正義の主張で溢れています。親に問題のある子供はもっと積極的に保護されるべきだ。科学技術への投資にカネを惜しむべきではない。先天的にハンデを抱える人たちへのケアを充実させるべき。ホームレスの人にも十分な衣食住を保証すべきである。貧乏であれ最高の医療サービスが提供されねばならない。義務教育はもっと少人数教育を行うべきであり、失業者にはより高度な職業訓練が施されるべきであり、離島であっても都会と同様の通信・医療・交通サービスが保証されるべきで英語教育は英語教授法を専攻したネイティブを1万人雇ってくるべきでスパコンは世界一であるべきで朝のラッシュ時でも乗車率は200%以下が保証されるべきなのであります。</p>

<p>これらはどれも全く正しい主張です。全く世の中には不正義が多すぎる。悲憤慷慨の余り革命家にでも転職する人が出そうな勢いです。しかし、これら絶対不可侵を誇る正義の声の数々は、現実にはたった一文字に跳ね返されてその勢いを失うのが常であります。つまり、「金」。</p>

<p><strong>あらゆる慈善事業には金がかかります</strong>。どんなに崇高な思想を抱いていたとしても、金がなければ救えるのは自分だけです。福祉活動を行う多くの団体にとって、寄付金を募ったり、政府からの援助を獲得したりすることはきわめて重要な仕事です。<a href="http://coliss.com/articles/build-websites/architectonics/usability/design-tips-for-charity-website.html">ホームページ一つ作るのにも気を遣います</a>し、体力のあるメンバーは市民マラソンなどで宣伝する必要があるでしょう。</p>

<p>そして、その時にもっとも大切な、心を配るべきポイントは「スポンサーにどうアプローチするのか」という、ごく当たり前のことです。<strong>スポンサーを説得できなければ、どんな正義も他人には届かない</strong>のです。そう考えると、この手の議論をする際にスポンサーの事情と意向を無視するのは、最大限好意的に書いても片手落ちの誹りを免れないでしょう。</p>

<p>ｘｘｘ</p>

<p>さて、ではこの奨学金の一件でスポンサー候補に挙がるのは誰でしょうか。アメリカであれば金持ちの篤志家を勘定に入れることが出来ますが（とは言え、この手の奨学金は「岩手県出身で名字が本郷であること」みたいなオモシロ条件がついていることがあったりする）、<strong>日本ではやはり納税者と大学がメインのスポンサー</strong>と言えるでしょう。</p>

<p>つまり、この奨学金問題を語る上では、2種類の利害関係者の問題を同時に考える必要があります。一つは納税者と大学の事情。もうひとつが、もちろん、奨学金受給者とそれを狙う人たち。よって、<strong>最適奨学金デザインの達成目標</strong>は、<br />
・親の所得が足りずに高等教育を受けられない子供たちにそのチャンスを与える<br />
・彼らに学資を提供することが、スポンサーにとって長期的には利益になることを示す<br />
の2点と言うことになります。当面、奨学金は貸費（ローン）だけを考慮します。</p>

<p>まず最初に抑えておかなければならない点は、<strong>大学教育というのは人生の中でもかなりリスキーな投資である</strong>と言うことです。成功すれば大卒の肩書きをひっさげて高給取りへの道が開かれます。しかし失敗すれば、4年の時間と学費をドブに捨てることになります。「そもそもそんなリスクがあることがおかしい」という意見は無意味なので考慮しません。むしろ、この程度の小さなリスクで済んでいることを先祖に感謝すべきでしょう。</p>

<p>この投資リスクは、学生にとってのみ問題なわけではありません。<strong>スポンサーにとって、奨学金は若者の将来に対する投資</strong>です。成功すればわずかな利子と税収増（納税者の場合）、そして評判（大学の場合）が得られますが、失敗すれば利子どころか元本まで丸損に終わる可能性があるのです。</p>

<p>そして、<strong>不景気のせいでこの投資の収益率が下がって来つつある</strong>（＝失敗確率が上昇）というのは、学生とスポンサー双方にとって由々しき問題です。スポンサーは投資意欲を失い、学生は進学意欲を失い、結果その双方が長期的にはじり貧に陥っていくことになるのですから。放置すべきではない問題なのは確かです。</p>

<p>ｘｘｘ</p>

<p>では、解決策を思案していきましょう。まず学生サイドの事情として、大学教育という投資に失敗すると返済で首が回らなくなってドツボにはまる恐れがある、という問題があります（リンク先の例はちょっと極端な気がしますが）。これを解決するには、<strong>所得が足りない場合は借金を棒引きにしたり、支払を猶予したり（これも広義には借金の棒引きと同じ）する必要</strong>がありますが、これだけではスポンサーが参ってしまいます。現状、まじめに確実に返済されることを前提に運営しているのですから。よって、このアイデアは単体では現実性がありません。</p>

<p>そこで出てきた面白いアイデアが、「<strong>ならば、卒業した後成功している学生からはその分多めに取り立てればいいじゃないか</strong>」というものです。これは筆者のアイデアではなく、<a href="http://www.ft.com/cms/s/0/881ad75c-bb8c-11df-89b6-00144feab49a.html?ftcamp=rss">イギリス政府のアイデア</a>なのですが。</p>

<p>もともとの話は、連立与党の一角である自民党が「大学の無料化」を公約に掲げたところから始まっています。野党でいる間は気楽に正義を語っていられた彼らも、いざ政権を担う段になれば「金」という現実に向き合わざるを得ません。そこで出てきたアイデアが、「学費はタダだが学位は買い取り(graduate tax)」、「投資銀行などで高給取りになった卒業生は割り増しで学費を払う」「学費を在学中に支払うのではなく、一生涯にわたって所得の1%を大学に支払続ける」というわけです（注）。</p>

<p>この3番目のアイデアは、奨学金を債券投資から株式投資に変えるがごときインパクトを持ちます。<strong>現在の奨学ローンは返済額が固定されていて</strong>、スポンサーとしては直接の儲けは高が知れています（間接的に評判や将来税収増は得られる）。その代わり返済を怠るとペナルティが課せられて、<strong>損も余りでない</strong>仕組みになっているわけです。これを、<strong>「所得の低い卒業生には積極的に棒引きを許し、成功している学生からは多く取り立てる」仕組みに変えると、最悪投資した金を全て失うが、優秀な学生が多ければ儲けも増えるという、ハイリスクハイリターンな、株投資のごとき奨学金制度が出来上がります</strong>。ちなみに、給費型の奨学金は、ある意味でこの「株投資型奨学金」の非常に極端な一例と言えます。</p>

<p>ｘｘｘ</p>

<p>実に面白いアイデアだと思うのですが、当然、この仕組みにも問題はあります。何しろ<strong>ハイリスク投資ですから、スポンサーは投資に当たって慎重にならざるを得ません</strong>。もし奨学生の8割が「失敗」した場合、残りの2割の卒業生に5倍の返済額を割り当てることは不可能だからです。少なくとも収支がとんとんになるよう、学生は厳選する必要が出てきます。</p>

<p>そもそも、少なくとも日本においては、大学を卒業したからと言って所得は大して増えません。<a href="http://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/kako/index.html">労働政策研究・研修機構の統計</a>によれば、高卒の生涯賃金は2億8000万円なのに対し、大卒のそれは3億1000万。<strong>大卒の方が失業率がぐっと低いことを考慮に入れても、生涯賃金の差は1割程度</strong>です。3000万円という金額自体は個々人にとっては十分大きな額ではありますが(但し、現在割引価値に換算すると半減する点に注意)、スポンサーサイドからしてみると、優秀な学生を引き当てても利益は株ほどには増えないことを意味します。となれば、損をしない方策は十分に練る必要があるわけです。</p>

<p>そこで当然考慮の対象となるのが、奨学生が合格した大学。いわゆる一流大学を卒業すれば、平均的には高い年収を得られるようになるはずだというのは、ごく普通の考えと言えるでしょう。信頼性は不明ですが、適当に見つけた<a href="http://ameblo.jp/genie-0329/entry-10131941858.html">こちらのデータ</a>では、ランキング1位と100位で年収が2割以上違っています。つまり、<strong>株投資型奨学金では、卒業生の就職実績の高い「一流校」の合格者に資金の大半が分配される</strong>ことになります。リスクの大きさから言って、<strong>資金規模それ自体も小さくならざるを得ない</strong>でしょう。</p>

<p>こう考えると、<strong>従来型の奨学ローンにもメリットがある</strong>ことが分かります。「卒業後どういう状況になるにせよ、内臓を売ってでも必ず取り立ててやる」というポリシーで運用される奨学金では、<strong>奨学生を選別する必要がありません</strong>。どの大学に進学するにせよ、学ぶ意志（厳密には、学ぶ意志ではなく進学する意志しか確認できませんが）さえあれば奨学金を用意することが出来るのです。</p>

<p>これらから得られる結論は、「<strong>支給時に厳しい奨学金は返済時に優しくなれる。逆もまた然り</strong>」というものです。この2種類の奨学金を両建てで使う場合、良い大学に受かった学生は有利な株投資型奨学金を享受し、そうでない学生は従来型のローンを活用するか、進学をあきらめることになります。ただし、少子化が進む日本では、資金規模が限定されたとしても株式型の奨学金である程度は運営していけるのかも知れません。</p>

<p>「ふざけるな、それじゃ教育投資に『失敗』する可能性の高い学生達は依然として厳しい取り立てを受けることになる。問題が全然解決して無いじゃないか」と思った人には、これからやるべき事があります。しこたま金を稼いで、その金を奨学金に寄付すること。スポンサーに損をさせず、学生からは取り立てない。その矛盾を埋めることが出来るのは、あなた自身のお金だけです。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>どんな正しい意見であれ、スポンサーを説得できないのでは意味がない。</p>

<p>奨学金の返済額を所得に連動させることで、卒業後に厳しい生活を強いられている奨学生を救済することが出来る。</p>

<p>ただし、そのような奨学金は受給者の質を厳選する必要があり、おそらくは「良い大学」へ合格した学生しか受給できない。</p>

<p>現行の取り立てが厳しい（特に厳しいとまでは思わないが…）奨学ローンにも、「より多くの学生に教育の機会を提供できる」というメリットがある。</p>

<p><br />
<strong>注：</strong>話が逸れるが、これはある意味個々人の教育水準を「毎月利益を生み出す資本」と捉え、それに固定資産税をかけるようなものと言える。昔筆者は親に「親が子に遺せる物で相続税がかからないのは教育だけだ」と言われて、なるほど、と思ったのを覚えているが、いよいよ教育にも国税庁の魔の手が迫っていると言うことなのかも知れない。<br />
</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2010-09-10T09:43:06+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-6373.html">
<title>英語って難しいよね （又は、英語の学び方について）</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-6373.html</link>
<description>たまたま見つけたこちらのエントリーを読んで、少し英語学習の難しさを愚痴りたくなっ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>たまたま見つけた<a href="http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/ecbe8017fab3dbfbfbdbde32be846c2e">こちらのエントリー</a>を読んで、少し英語学習の難しさを愚痴りたくなったので少し書いてみたい。しかし、こういう愚痴のようなエントリーを書くときだけやたらと筆が進むのは何故だろう。</p>

<p>日本人は英語が下手糞だというのは何よりも自分が身に染みて理解していることなのだが、個人的には英語教育以前の問題が原因としては大きいように思う。それは我々が使う日本語の問題であり、また英語の問題であって、教育のやり方がまずいという上のエントリーの主張は（事実だとは思うが）副次的な要素であるように思えるのだ。以下、少し説明したい。</p>]]><![CDATA[<p>そもそも、皆が当たり前のように習得しているので余り意識されないが、英語というのは必ずしも学ぶのが簡単な言語ではない。理由はざっと3点ほど挙げられる。</p>

<p><br />
<strong>(1) 単語の数が多い</strong><br />
 <br />
昔、日本語を勉強しているアメリカ人からこんなことを言われたことがある。"日本語って大変だな、英和辞書と和英辞書が同じくらい厚いよ"。何のことやらさっぱりだったので、こちらはぽかんとしてしまったのだが、彼の説明を聞くと以下のような話であるらしい。<br />
 <br />
英単語の数は他の言語に比べてずっと数が多いので、英○辞書が○英辞書と比べてやたらと厚くなる傾向があるのだそうだ。何故なのかは彼も"良く分からない"そうだが、フランス語やドイツ語からの輸入単語が多いことも単語数の増加に一役買っているらしい。特にイギリスでは、一昔前は上流階級がフランス語で会話していたせいか、今でもおハイソな文章にフランス語を混ぜたがる傾向がある(The Economistとか)。筆者のような英語を読むだけでも精一杯な読者には苦痛でしかないのだが。一方でドイツ語由来の単語はいわゆる労働者階級の人たちが使う英語に多いのだそうである。<br />
 <br />
話を戻すと、和英辞書と同じくらいの厚みを持つ辞書は仏英辞書くらいのものであるそうだ。もちろん、最低限生きていくのに必要な英単語の数は他言語と比べて大差ないのだろうが、少し気の効いた文章を読もうとすると、見たこともない単語やイディオムに頻繁に行き当って凹むことになる。<br />
 </p>

<p><strong>(2) 発音がややこしい</strong><br />
 <br />
アメリカやイギリスの国語教育(要するに、ネイティブ向けの英語教育)で、一番の難関とされているのが実はこの発音(正確には、phonics)の問題だ。スペルを見てもどう発音すればよいのかまるで分からないのだから。eだけでも、単語によって実に12種類もの異なる発音が存在する（無声音も入れれば13種）。アメリカの子供が混乱するのも無理はない。結局、ただでさえ多い英単語のそれぞれについて、発音記号まで暗記させられる羽目になるのである。我々ノンネイティブが英語を学習するにあたって、一度はうんざりさせられるのがこの点だ。<br />
 <br />
英語の発音自体も、ヨーロッパ語圏の人たちにとってすら必ずしも簡単とはいえない。例えば、英語では子音をかなり強く発音する傾向がある。例えば、marketという単語では、k(とt)のところでつばを吐き散らかさんばかりの勢いで口の中の空気を爆発させる。アメリカ人の英語をぼやーっと聞いていると、歯から漏れるシュッシュッという音がやたらと耳に付くことがあるが、これはkやs、tなどの子音を英語が強調する傾向があるからだ。例えばイタリア語ではこれらの子音をもっとマイルドに発音するため(日本語により近い)、アメリカ人が聞くとtaがdaに聞こえたりすることがあるらしい。韓国人はpとfの区別が、タイ人はshとchの区別がつけられないし、どの国もそれぞれに得手不得手があるのである。<br />
 <br />
そしてもちろん、日本人にとっては英語の発音は難しい。これは主に日本語の問題だ。まず、母音があいうえおの5種類しかない。一方で英語は12種類、二重母音や三重母音まで含めれば25種類に及ぶのだから、単純な日本語の発音に慣れきった日本人が苦労するのは当たり前の話である。歴史の長い言語は次第に発音が簡略化されていくと聞くので、それが本当なら歴史の長い国に生まれてしまった不運とあきらめるしかない。<br />
 <br />
少し正確に書くと、重要なのは母音の数の違いではなく、舌と顎と喉の使い方の違いだ。<strong>日本語をしゃべる時、</strong>舌の使い方に気を付けてみてほしい。<strong>動いているのは舌先3分の1だけで、舌の根っこの方は全く動いていない</strong>ことが分かると思う。歌でも歌わない限り、喉を絞って音を出すということもまずない。あごの動きや唇の動きも、英語のネイティブスピーカーと比べるとはっきりと小さい。</p>

<p>英語の場合、発音記号u:(moonなど)は舌の根っこを持ち上げて、喉を半分ふさがないとちゃんとした発音にならない。i:(feelなど)は逆に下の真ん中へんを目いっぱい持ち上げて音を絞り出す。同じ"イ"音でも、発音記号i:とI(visit)では舌のポジションが異なり、Iの方が"エ"音に若干近づく。どれも、舌をほとんど使わずに発音する日本人には難しい。<br />
 <br />
子音については、LとRなどの話は有名なので省略するが、他にも難しい発音は山ほどある。日本人は子音と母音を切り離して発音することに慣れていないので、tだけ、kだけ発音しているつもりでもついつい母音まで発音してしまう。筆者が不得手なのはdの音で、いくら気をつけてもdragonが"ドゥラゴン"になってしまい、d単独で発音できない。<br />
 </p>

<p><strong>(3) 文法はそれほど難しくない(?)</strong><br />
 <br />
大概のアメリカ人は文法にそれほど頓着しない。というか、当の本人の書き言葉も怪しい場合が多々ある。正直、米人よりもドイツ人の方が英語の文法に詳しいのではないかと思うことすらあるほどだ。ただし、どんないい加減なアメリカ人でも、"三人称単数現在"のsを間違うと"さすがにこの文章はいかがなものか"と感じるらしいので、せめてその点には気をつけたい。<br />
 <br />
ただこの文法にも日本人の鬼門がひとつある。定冠詞(aとかtheとか)である。これは比較的シンプルでクリアな英文法にあって、完全には体系化されていない困った分野だ(つまり、直感で決めるしかない場合がある)。問題なのは、<strong>aを使おうがtheを使おうが文法的には全く問題ないにもかかわらず、その文章の意味はまるで違うものになってしまう場合がある</strong>という点だ。単なる文法間違いなら類推も利くが、定冠詞の間違いは得てして聞き手を混乱に陥れる。しかも、定冠詞なしには文章一つ書くことは難しいほどの頻出語句だから始末に終えない。<br />
 <br />
まぁ、筆者の友人のイギリス人は"定冠詞とか訳分かんないから私は一切使わないことにしている"と言い放っていたので、そこまで神経質にならなくても良いのかもしれない。ただ、これは酒の席でのコメントなので、彼女の非常に魅力的なアドバイスに従うならば自己責任ということでよろしくお願いしたい。<br />
 </p>

<p> <br />
<strong>使える英語の学び方</strong><br />
 <br />
とりあえず英語が難しいのは分かったとして、ではどうすればいいのだろう。前にも書いたが、"教育がいかん"というのは世の中の問題の9割くらいには適用可能なマジックワードであって、それ自体は全く正しいし重要なのだが、それだけではあまり議論にならないし、役にも立たない。<br />
 <br />
そこで、とりあえず学校教育はさておいて、現在進行形で英語に苦しむ者の経験を踏まえて、英語力を伸ばすために必要なことを考えてみたい。<br />
 <br />
とはいえ、必要な英語は人によって全く異なる。電子メールのやりとりだけの人もいるだろうし、とにかく大量の英語を読みこなさないといけない人も多いだろう。その当たりは適宜取捨選択して頂きたい。万人に最適な英語学習法など存在しないので。<br />
 </p>

<p><strong>A: 論理的に書き、論理的にしゃべる</strong><br />
 <br />
のっけから英語じゃないじゃんよとツッコミが入りそうだが、結局これが一番有効なのだ。人間の頭はなかなか都合よくできているので、意味が取れる限り文法間違いも発音違いも頭の中で自動補正しながらふんふんと聞いてもらえる。逆に<strong>文章の意味が取りづらいと、自動補正が使えなくなって話し手の文法間違いや発音のミスがいちいち気に障り出す</strong>。こうなるとおしまいで、聞き手のイライラが伝播して話し手が委縮してしまったり、話し手まで感情的になってしまったりして商談やプレゼンは失敗に終わることになる。<br />
 <br />
ただし、英語で論理的にしゃべったり書いたりするのは実は結構難しい。ただでさえ英語を喋るのに必死になっているので、論理構成に注意する心の余裕がないし、そもそも日本人は若干の論理の飛躍に比較的寛容なので(筆者の主観だが、随筆的な文章は論理が飛躍しやすいように思う)、論理的にしゃべった(書いた)つもりでもそうなっていないことが多い。何かを書いた時には、文法のチェックは後回しにしてでもロジックがわずかな飛躍も無くつながっているかどうかを確認すべきだ。この逆をやってしまっている人は結構多いのではないだろうか。</p>

<p><br />
<strong>B: 発音はあきらめる</strong></p>

<p>英語の発音を習得するには2つのやり方があるように思う。ひとつは、リスニングを鍛えて英語の音を完璧に聞き取れるようになること。そうすれば、自分の発音のおかしいところが分かるようになる。ただし、これを読んでいるあなたが幼児ではないのなら、このやり方はかなりの時間がかかるのでお勧めしない。発音の習得という観点からは遠回りに過ぎるし、精密なリスニング自体大して役に立たない（LとRの聞き分けが出来なくて困る時というのは、相手の喋っていることが類推も出来ないという絶望的な状況なので、頑張ってもしょうがない）。</p>

<p>もしあなたが20歳を過ぎているなら、発音の独習は完全に時間の無駄なのであきらめた方がよい。自分の発音が間違っているかどうかも分からないのに、シャドーイング（確か、聞いた端からそれを繰り返してゆく訓練法のこと）なんぞやっても発音が改善するわけがないのだ。（発音の正確さにこだわらず、とにかく英語を口に出してみる訓練としてなら意味があるのかもしれないが）</p>

<p>一番効率がよい方法は舌や唇、あごの動かし方、それに喉の使い方を全て暗記してしまい、繰り返し訓練して更にそれを逐次ネイティブの先生にチェックしてもらうこと。この先生も、発音法についてしっかり学んだ人でないと良いアドバイスは期待できない。ただし、日本でこれをやろうとすると多分物凄いお金がかかるのだが。</p>

<p>つまりどうあがいても、<strong>発音教育にはコストがかかる</strong>。学校教育でまじめに発音を教えようとしたら、それこそとんでもない金額の予算が必要だろう（それ以前に人材の絶対数が足りない）。そしてそのコストに比して、きれいな発音が出来るメリットは小さい。意思疎通さえ出来れば、発音の善し悪しは大した問題ではないのだから。</p>

<p>ただし、これには大きな例外がある。もしアメリカ人と普通の友人（珍しい日本の知り合いではなく）になりたいのなら、やはり発音は大切だ。日常会話はロジックではない。突拍子もないことをジョークとして言いたくなるときもある。しかし、運良く絶妙のタイミングで絶妙のフレーズを思いついても、発音が悪ければ会話は途切れてしまう。こういう事が続けば、やはり友達関係にはどうしても「上限」が出来てしまう。このレベルで英語を使いこなしたいなら、やはり発音の練習は不可欠だ。ただし、これは渡米した後でも遅くはないと思うが。</p>

<p><br />
<strong>C: 知ったかぶりをしない</strong></p>

<p>これまた英語とは関係ないのだが、それでも大切な点なので挙げておきたい。英語でまくし立てられてしまうと、何を言っているかよく分からなくても、つい”oh yes”と分かったふりをしたくなるのは人情というものだ。しかし、これをやると次第に会話がかみ合わなくなっていき、お互い途方に暮れるというドツボにはまる。「英語が下手で何を言っているのか分からない奴」から「何を考えてるか分からない奴」にレベルアップしてしまいかねない。<strong>辛くとも分かるまで食い下がる</strong>姿勢は、特にアメリカでは重要になると思う。</p>

<p><br />
この辺りを抑えておけば、後は英語学習法はオーソドックスなもので十分ではないかと思う。語彙を増やす。使えるイディオムや例文を暗記する。最低限の文法を理解する。本を読んでテレビを見る。大体、先人が百年前から英語に苦労していて、結果こういうやり方に落ち着いたのだから、そうそう更に効率の良いやり方が見つかるはずもないのだ。</p>

<p>お互い頑張りましょう（今苦労している人へ）。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>英単語は多すぎる。</p>

<p>英語の発音は複雑すぎる。</p>

<p>英語の定冠詞は訳が分からない。</p>

<p>英語って難しいよね。<br />
</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2010-03-30T10:49:40+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1d01.html">
<title>和魂と洋才とアメリカンドリーム</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1d01.html</link>
<description>前回前々回と、欧米の「ジェノア型」組織の非生産的なところばかりを強調して書いてき...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">前回前々回</a>と、欧米の「ジェノア型」組織の非生産的なところばかりを強調して書いてきたので、こういう疑問を持つ方もいたかもしれない。「アメリカ人ってそんなにみんな怠け者だったっけ？」</p>

<p>実際、アメリカ人には、日本人よりも遥かに「ワーカホリック」な人がいくらでもいる。ウォール街で働く証券マンなどはいい例だろう。朝5時に起床して会社まで30分のジョギング。会社でシャワーを浴びて6時には席に着き、メールをチェックしつつロンドンやらシンガポールやらと電話。朝の8時にはモーニングミーティングに出席し、9時半にマーケットが開けば、めまぐるしく動く株価をにらみながら右へ左へと叫び続ける。よほどの理由がない限り、ランチを外に食べに行くなどあり得ないことである。マーケットが閉じるのが4時、その後で取引の後始末をしたり客のリクエストに応えたりしているとあっという間に7時になる。客とのディナーが入っていればこの後深夜まで飲み続けてしゃべり続ける。そうでなければ多分9時くらいには会社を出られるだろう。トレーダーならもっと早く帰れるし、アナリストだともっと遅くなる。アナリストの場合は、帰宅が午前1時になるのも特に珍しいことではない。</p>

<p>家に帰ったところで、それで仕事が終わりというわけではない。下っ端アナリストであれば上司からの「明日の朝までにこれを用意しておけ」という電話に怯え続けなければならない。トレーダーの場合は、深夜に相場が動くたびに叩き起こされたりする（相場が動くとアラームで教えてくれる、それはそれは親切な機械があるのである）。法務部のような一見平和そうな部署でさえ、午前3時に叩き起こされて、地球の裏側での取引の決裁を要求されることは日常茶飯事だ。うっかりブラックベリーを会社に置き忘れて来ようものなら、居間の電話が容赦なく鳴り響く。折角寝付いた赤ん坊は夜泣きを再開。妻の殺気だった視線と赤ん坊の泣き声に耐えつつ、寝惚けている脳細胞にムチをくれて、電話先で下手くそな英語をまくし立てる営業マンから決裁に必要な情報を聞き出さなければならない。</p>

<p>金融市場がお休みの土日は暇かというとそうでもない。土曜日は朝から客や上司とテニスやゴルフ。日曜日は夕方に出社するかネットをつないで、月曜日の仕事のための仕込みをしておかなければならない。1年の間で、仕事のことを完全に忘れられる日など存在しないのだ。</p>

<p>これらがウォール街の特殊なケースというわけでもない。Center for Work-Life PolicyというNPOの調査によると、大企業の重役・管理職の45%が週に60時間以上働いているそうだ。月の残業時間に換算すると110時間弱。NPOが”extreme workers”と呼ぶこの45%に限って言えば、毎月の平均残業時間は170時間に達する。このグループのうち、約半数は有給休暇を一桁しか消化していない。プライベートなんてものは犬に食わせてしまったとしか思えない仕事ぶりである（注1）。</p>

<p>そして、彼らは周りから強制されて働いているわけではない。別に自分一人がさっさと帰ってしまっても、仕事さえこなしていれば咎められることはない。ここはジェノア型の組織なのだから。実際、彼ら”extreme workers”の中で、「周りやボスに強制されて働かされている」と感じている人は殆どいなかったそうである。むしろ、彼らの67%は激務を「自らに課している」と答えている。ついでに書くと、76%が自分の仕事を愛しているとも答えているそうだ。</p>

<p>なぜ彼らはそこまでして働くのだろうか？今回は日本の話からは少し離れて、ジェノア型組織で働く人々のことを考えてみたい。</p>]]><![CDATA[<p><strong>従業員を働かせる2つの方法</strong></p>

<p>以前にも書いたことだが、人の出入りが激しいジェノア型の組織では、評判メカニズムが機能しない。こういう組織では、従業員を必死に働かせるというのは、なかなかに難しい作業のはずだ。<strong>従業員同士の相互監視が存在しない以上、上司の目を盗んでサボり放題なのだから</strong>。「首切りが簡単な組織なんだから、使えない奴はクビにすればいい」？ そう簡単な話ではない。好景気なら、その従業員は容易に次の職を見つけ出すだろうから、「きりきり働かないとクビにするぞ！」という脅しは何の効果も持たない。それに、代わりに雇う新人が前任者よりも働くという保証もない。この<strong>前任者は実に合理的な理由でサボっていたのだ。ならば、例え別の職場の働き者を引き抜いてきたとしても、その新入りはやはり合理的にサボり始めると考えるべき</strong>だろう。</p>

<p>で、どうすれば彼らをバリバリ働かせることが出来るかだが、やり方は二つある。一つは、<strong>中間管理職の締め付けを徹底的に強化して、サボる余地を与えない</strong>こと。単純な方法だけに効果はあるのだが、サボっているかどうか傍目には分からない頭脳労働には使いづらい（これについては次回改めて触れたい）。</p>

<p>もう一つは、<strong>従業員に他社よりも高い待遇を用意する</strong>こと。上のケースで「首切りの脅し」が効果を持たなかったのは、「クビになっても別の会社に行くだけだからどうってことないよ」と開き直られてしまうからだった。しかし、「今の会社をクビになったら、もはや今エンジョイしている待遇は望むべくも無い」ということになると、従業員の目の色は変わる。「君の後ろで100人が君の席を狙っていると言うことを覚えておきたまえ（フフン）」という、米系大手お約束の文句が効果を発揮するのは、こういう時である。好待遇というのは別に給料だけとは限らない。世界最大のボンドハウスであるPIMCOのメインオフィスは、<a href="http://maps.google.com/maps?f=q&source=s_q&hl=en&geocode=&q=840+Newport+Center+Drive,+newport+beach,+CA&sll=33.622624,-117.817383&sspn=0.875949,0.997009&ie=UTF8&ll=33.607471,-117.903643&spn=0.052898,0.064373&t=h&z=14">カリフォルニアの海岸からすぐ</a>の、<a href="http://ameblo.jp/his-losangeles/entry-10132810021.html">それはそれはいい所</a>にある。カフェテリアをやたらと充実させたGoogleや、出張の際は新人でもファーストクラスと決まっている某ヘッジファンドのようなやり方もある。要は、自分の職場は素晴らしいところだと従業員に思ってもらえればいいのである。後は、出来の悪い従業員を適度に間引いていくだけで、残った社員はバリバリと働く。</p>

<p><br />
<strong>効率性賃金と成果報酬賃金</strong></p>

<p>このような賃金制度はジェノア型と呼んでも良いのだが、ここではグライフ教授の元ネタに敬意を表して、<strong>効率性賃金</strong>(<strong>Efficiency Wage</strong>)と呼びたい(注2)。この制度は、能力と体力のある人間にとっては実に素晴らしい仕組みである。どんな会社だって有能な人間は欲しい。そして、引く手あまたの人間にはより良い待遇を用意しなければ、その従業員は今の仕事は適当に流しつつ、他社への移籍交渉に精を出すことになる。こうして、<strong>有能な従業員の賃金はどんどん上がっていく</strong>。</p>

<p>有能な人間に高賃金、と書くと、一時期日本で流行った成果報酬賃金を思い出す方もいるかもしれない。しかし、この<strong>効率性賃金は成果報酬賃金とは似て非なる物</strong>だ。成果報酬賃金とは、成果を出した社員に好待遇で報いる制度のこと。効率性賃金は、好待遇を与えることで従業員のやる気を引き出し、好成績を期待する制度だ。順序が逆なのである。日本では毎年の成績に連動して給料が変動するのが成果報酬賃金であり、欧米的である、と勘違いしている向きが多いような気がするのだが、別にそんなことはないのである。優秀な人間でも成果が上がらないときはある。だからといって杓子定規に給料を下げてしまっては、その従業員はさっさと別会社に移ってしまう。これでは全く意味がない。<strong>効率性賃金は、結果を残した人間ではなく、「これから成果を挙げそうな、自社でバリバリと働いてもらいたい人材」に金を払う制度</strong>なのだ。</p>

<p>こう考えると、日本で成果報酬賃金がイマイチ根付かない理由も見えてくるように思う。ひとつは、以前書いたように、<strong>マグレブ型の組織では従業員同士の協力が高度に発達しているので、個人のパフォーマンスは測りづらい</strong>という点。もうひとつは、<strong>欧米型の賃金体系を「出来高制に近い、ドライな賃金体系である」と勘違いしている</strong>ということ。疑問に思うなら、ボーナスシーズン（冬）に外資系に勤める友人を酒に誘ってみればよい。「あいつは俺よりも稼ぎが悪かったのに、ボーナスは俺より多いんだぜ」みたいな愚痴が山ほど聞けるはずだ。<strong>効率性賃金では、賃金は「こいつは頑張ればこのくらいやれるはず」という期待値で決まる</strong>。むしろ<strong>ウェットな賃金体系</strong>なのだ。この点は少し先の回で改めて触れたい。</p>

<p><br />
<strong>アメリカン・ドリーム</strong></p>

<p>この「優秀な人間には好待遇」という賃金制度には、いくつかのメリットがある。ひとつは、当たり前だが、<strong>世界中から優秀な人間を集められる</strong>ということ。ジェノア型の組織では従業員同士のコミュニケーションはそれほど重視されないので、海外の人材の吸収はさほど難しくはない。その代わり、直属の上司の負担は増えるが（文法が目茶苦茶な部下のレポートを添削するのは彼の仕事である）。アメリカの繁栄を支える最大の要素と言ってもいいだろう。</p>

<p>もうひとつは、<strong>長期雇用関係が成立しやすい</strong>ということ。人材が会社から会社へと渡り歩くジェノア型組織にあっても、優秀な人は滅多に会社を移らない。辞めようとすると会社が待遇を吊り上げて引き止めるからだ。ゴールドマンサックスの敏腕トレーダーからCEO、そして財務長官にまで上り詰めたルービンもそのクチである。上司に辞意を告げたら、パートナー（ウォール街では夢のポジション。注3）の辞令が下りたのだそうである。入社して5年足らずでの超スピード出世であった。結局、ルービンはその後20年をゴールドマンで過ごすことになる。</p>

<p>一方で、このやり方には問題もある。それは<strong>人件費の高騰</strong>。特に、従業員の能力次第で会社の利益が大幅に変化する金融業界では、利益の大半を人件費で吐き出すことになる。それが昨今アメリカで問題になっているのはご存知のとおり。どれだけ非難されようと、米銀が高額のボーナス支払いをやめようとしないのは、そうしなければ人材が一気に散逸して利益が吹き飛ぶからだ。「金融業界が一斉に賃下げすればいいじゃないか」という意見も聞くが、優秀な人間というのはどんな業界でも食っていけるのである。そもそも、昨今の金融技術の発展を支えたロケットサイエンティスト達はNASAの出身だったのだから。</p>

<p><br />
アメリカンドリームとは、「優秀な人間には他社よりも良い待遇を約束せざるをえない」というジェノア型組織特有の現象である。そして、今回は「他社よりも好待遇の会社」のことだけを集中して書いてきた。では、<strong>相対的に待遇の悪い「他社」では、いったい何が起こっているのだろうか？</strong> そのことを書く前に、過去の「アメリカンドリーム」が人類に何をもたらしたのか、軽く触れておくことにしたい。</p>

<p><strong><br />
本日のまとめ</strong></p>

<p>大企業に勤めるアメリカ人は、下手な日本人などよりもはるかに「ワーカホリック」である。</p>

<p>従業員をバリバリ働かせるには、他社よりも良い待遇を用意すること。そうすることで初めて、従業員はクビになることを恐れるようになる。</p>

<p>この「やる気を引き出すための高賃金（クビにするぞ、という脅しを有効にするための高賃金）」は、成果報酬賃金とは全く違う。</p>

<p>こういう会社には優秀な人間が集まるが、人件費が高騰するのが悩みの種。</p>

<p><br />
<strong>次回予告</strong>：和魂と洋才とルネッサンス</p>

<p><br />
<strong>目次：</strong><br />
第1部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b54e.html">和魂と洋才と温泉のガイジン</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6f74.html">和魂と洋才と医療の崩壊(上)</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html">和魂と洋才と医療の崩壊(下)</a><br />
　　　　和魂と洋才と白羽の矢  <予定><br />
第2部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html">和魂と洋才と「会社」の仕組み</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">和魂と洋才と残業したい人々(上)</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-207d.html">和魂と洋才と残業したい人々(下)</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-1d01.html">和魂と洋才とアメリカンドリーム</a></p>

<p><br />
<strong>注1</strong>： 筆者はこのレポートを直接参照していないので、数字は孫引きのものであることに留意されたい（一応複数のソースで確認はしている）。</p>

<p><strong>注2</strong>： シャピロ・スティグリッツの両教授がこの考え方を発表したのは1984年、グライフ教授の一連の著作は90年前後で、グライフ教授の論文でもこの効率賃金仮説は引用されている。興味のある方は適宜検索されたい（効率性賃金仮説で検索した方がいいかも）。英語が読める読者の方は、以下の原論文の最初の数ページが完璧な要約になっているので、そちらを参照されることをお勧めする。念のために書くが、話の都合上シャピロ・スティグリッツの議論を自己流にアレンジしているので、ここの議論は必ずしも彼らの議論とは一致しない点に注意。<br />
<a href="http://econ161.berkeley.edu/teaching_Folder/Econ_202b/readberk/Shapiro_Stiglitz.pdf">Shapiro, C. and J.E. Stiglitz (1984), “Equilibrium Unemployment as a Worker Descipline Device”, American Economic Review 74, 433-444.</a></p>

<p><strong>注3</strong>： 当時株式公開をしていなかったゴールドマンサックスでは、社内の一部の人間が共同出資者として株を保有していた。この共同出資者のことをパートナーと呼ぶ。当然、利益が出ればボーナスどころではない莫大な利益を生むが、赤字になれば損もする。当時のウォール街では「夢のポジション」であり、自分がパートナーになれるとは期待していなかった、とルービンは回顧録に書いている。株式公開後はどうなっているのかは知らないが、一応パートナーという肩書きは残っているようである。<br />
</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>
<dc:subject>和魂と洋才とユダヤの商人</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-08-23T19:18:13+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-207d.html">
<title>和魂と洋才と残業したい人々(下)</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-207d.html</link>
<description>終身雇用、年功序列、そして持ちつ持たれつ助け合い、と並べると、何だか日本の会社と...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>終身雇用、年功序列、そして持ちつ持たれつ助け合い、と並べると、何だか日本の会社というのは随分と居心地が良さそうに思えてくる。実際、こういうことを思う人は少なくないらしい。で、「この厳しい国際競争の世の中では、日本企業のような甘っちょろい組織は生き残れない!」といった、様式美と呼ぶべきお約束の議論が始まるわけだ。<br />
 <br />
しかし、日本の企業というのはそんなに甘い組織なのだろうか。そして、容赦なくクビを切る(と言われる)欧米の企業というのは、そんなに厳しい組織なのだろうか。正直、筆者には、日本の企業が"使えない人々"に対して甘い組織だとは到底思えないのである。</p>]]><![CDATA[<p><strong>同僚に"優しい"組織</strong><br />
 <br />
海外のオフィスにお邪魔していると、当然一緒に夕飯を食べたりすることもあるわけだが、そういう席で"上司の悪口"で盛り上がるのは洋の東西を問わない。悪口の中身も、自分の業績を取られただの、査定が低すぎるだの、自分のやりたいことをやらせてくれないだの、どこかで聞いたことのあるような話ばかりだ。<br />
 <br />
ただ、ひとつ違うのは、少なくとも筆者の主観では、彼らは同僚の悪口を全く言わないということ。それも、角が立たないように注意深く話題を避けているというより、単に無関心であるように見えるのだ。</p>

<p>よく考えてみると、これはジェノア型の組織では当然の現象だ。そもそも、同僚との共同作業が少ないのだから。隣の同僚がどれだけ仕事が出来ようが、逆に使えなかろうが、それは上司と雇用主の問題であって、自分は自分の仕事をきっちりとこなせばよい。そんな彼らが、折角の食事を同僚の愚痴などと言う非生産的な作業に費やす必要はないのである。</p>

<p>だから、夏に3週間休みを取っても誰も何とも思わない。挙句、「海外に引っ越した彼女と一緒に住みたいので、在宅勤務という形でその国から仕事をしたい」という要望があっさり通ってしまったりもする。さすがに給料は減ったらしいが。こんな組織では、日本ではお約束の「みんなが働いているのに自分だけが帰る罪悪感」など、生まれようはずもない。</p>

<p><br />
<strong>優しくも厳しい日本の会社</strong></p>

<p>一方で、互助を基本とするマグレブ型の会社では、だいぶ事情が異なってくる。この点を少し掘り下げるために、マグレブ型の助け合い組織の中に、「助けてもらうのは歓迎だけど、自分は他人を助けないよ」という不届き者がいた場合を考えてみよう。こんな時、互助組織で困るのは周りの同僚である。<strong>「助けないのに助けてもらう」人がいるということは、「助けているのに助けてもらえない」人がいるということ</strong>。つまり、同僚を助けて評判を高めているのに、それに見合う手助けを得られない人がいるということだ。こうして、<strong>不届き者が増えるほど、高い評判を保つ意味は薄れてしまう</strong>。</p>

<p>ジェノア型の組織では、不届き者の存在はその上司にとっての問題でしかなかった。しかし、マグレブ型の組織では、「使えない」人々（怖い表現だが）は、頑張って働くメンバー全員の問題なのだ。<strong>他人の助力に「ただ乗り」するのは、「評判を維持するために頑張って働く」人々をコケにする行為に他ならない</strong>のだから。頑張って働いている人がそういう「使えない」人々に対して不愉快を感じるのは、その意味で自然な成り行きといってよい。</p>

<p>こんな組織では、同僚の出来不出来に対して自然と関心が集まる。「彼はどう？」と尋ねると仕事のスピードから人付き合いまですらすらと答が返ってくるのは、筆者の知る限り日本くらいのものである。同じ部署でもなければ人事部の人間でもないのに。普通の社員でこれなのだから、人事部ではどんな品定めが日々行われているのか、想像するだに恐ろしい。</p>

<p>当然、この「社員同士の相互監視」で発見された<strong>「使えない人々」は排除する必要がある</strong>。手っ取り早いのはクビにしてしまうことだが、これがなかなか難しい。<strong>雇用主側からしてみると、高度に協力関係が発達した組織で「誰が使えないか」を見分けるのは非常に困難</strong>だからだ。使えないのが誰か、日々の噂話で把握している同僚にしても、個々の責任がちゃんと分かれていない以上、「使えない」証拠を挙げることは難しい。そんな状況で無理に解雇してしまうと、今度は前回の<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">「人助けの量は自分の地位の安定度に比例する」</a>という条件に違反してしまう。</p>

<p>そうなると、同僚たちは雇用主に頼らずに「使えない人々」を排除していくしかない。仕事の割り当てが減り、オフィスの端へ、暇な部署 へ、そして子会社へ。<strong>村八分はマイルドに緩やかに進行してゆく</strong>。こんな飼い殺しよりも、20代のうちにさっさとクビにしてもらったほうが、その後の人生まだ夢があるのではないかと思うのだが、なかなかそうは行かないのが日本の会社なのである。</p>

<p>こんな組織では、「自分の仕事は終わったので定時に帰ります」という、傍目には至極まっとうな行動が歓迎されない。<strong>まだ同僚たちは働いているのに自分だけさっさと帰るというのは、「自分は同僚を助けない」と宣言するようなもの</strong>だからだ。これは、自らに「使えない不届き者」のレッテルを貼る行為に等しい。定時で上がれるくらいに仕事が楽ならば同僚を手伝うべきであり、それが嫌ならば忙しいふりでもしているべきである。</p>

<p>前回、マグレブ型の助け合い組織では<strong>残業してでも同僚を助けたほうが得になる</strong>、と書いた。ひっくり返すと、これは「<strong>残業してでも同僚を助けないと損をする</strong>」ということでもある。ある人は「日本の会社の原動力はチームワークだ、カイゼンだ」と褒め称え、ある人は「残業を強要される、息が詰まる、これは奴隷だ」となじる。この正反対の意見は、実はまったく同じ意味なのである。その会社の景気がよければポジティブに解釈され、景気が悪ければネガティブに解釈されるというだけのことに過ぎない。</p>

<p><br />
<strong>助け合いの対価</strong></p>

<p>「使える人々」は社内で高い評判を勝ち得た人たちのことであるように、村八分を食らう「使えない人々」は、社内での評判が下がってしまった人たちのことである。もしこの評判が100％正確なものであれば苦労はない。使えない人々は正しく村八分になるだけだ。問題なのは、<strong>評判は時として間違う</strong>ということ。人間は残念ながら勘違いする生き物だし、もっと残念なことに間違った評判をわざわざ流す生き物でもあるのだ。知らない間に間違った評判で緩やかに村八分になるなど、恐怖以外の何物でもない。<br />
 <br />
グライフ教授によると、マグレブ商人も似たような悩みを抱えていたらしい。行き違いの果てに「借金を踏み倒した」という評判を立てられた商人が、「私の評判は台無しだ」と嘆いた手紙が今でも残っているそうだ。マグレブ商人たちはゴシップ大好きのたいそう筆まめな人たちであったそうだが、<strong>彼らが筆まめであったのは、この種の「行き違いによる評判の低下」を避けるため</strong>という理由もあったかもしれない。</p>

<p>この手の行き違いは、情報網が発達した現代でもいくらでもある。だから、現代社会のマグレブ型組織に生きる我々も、また筆まめでなければならない。とはいえ、1000年前と違ってコミュニケーション手段は豊富だ。飲み会、カラオケ、ゴルフ、喫煙所、そして飛び交う電子メール。人によっては金と時間の盛大な無駄遣いとしか思えない行事の数々には、それなりの存在意義がある。腹を割って話す機会は、普段は分からない「評判の誤差」を修正する大切なチャンスになるのだ。<strong>コミュニケーションは、マグレブ型の助け合い組織の維持に必要不可欠なコスト</strong>なのである。</p>

<p>一方で、欧米では職場の人間が頻繁に酔払うまで飲む、という習慣はあまり無いらしい。このコミュニケーションの欠如が徹底していたのがジェノアの商人で、中世イタリア史の本を読んでいると、ジェノア商人の秘密主義のせいで資料がない、と嘆く文章をよく見かける。新規開拓した航路、冒険の果てに見つけた素晴らしい宝物、全ては企業秘密でろくに書き残されることすらなかった。そんなわけで、世の中にベニスの商人を語る話は数あれど、ジェノアの商人を語るのは経済学者ぐらいしかいないのである。</p>

<p><strong><br />
隣の芝が青い理由</strong></p>

<p>こう考えてみると、「アメリカと比べて、日本の会社は無駄な残業が多すぎる。もっと自由に働けるようにすべきだ！」というお約束の意見が、少し色褪せて見えてこないだろうか。無駄な残業は確かに非効率だし、それを強制するような「空気」は息苦しいものだ。しかし、日本の製造業とサービス業を支えるチームワークは、そういう無駄の上にのみ成立しうるものかもしれないのだ。ならば、日本企業のそういう長所を放棄しようとせずに、ただ「残業を減らせ！」と叫ぶことと、講演会場に車で乗り付けて「石油に頼る工業文明はおかしい！」と言い放つことには、大した違いはないのかもしれない。</p>

<p>隣の芝はいつだって青く見える。それはその芝を維持するコストを知らないからだ。青い芝を維持するために朝5時に起きて手入れをしないといけないとしたら。農薬散布を欠かさないとしたら。そうそう気楽に隣の芝生をうらやむ気にはならないものだ。農薬を散布してでも完璧な青さを追及するか。それともちょっと芝生が枯れかけても余り手間暇はかけずにやるか。バランスの取り方が違うというだけで、どちらも正しいやり方だ。その一側面だけを取り上げて「欧米の方が素晴らしい」「いや日本の方が」などと比べてみても、実りある議論になりはしないのである。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>「使えない人」は存在するだけで「助け合い組織」のパフォーマンスを低下させてしまう。</p>

<p>そのため、欧米と違い、日本の企業では「使えない同僚」に厳しい。</p>

<p>残業をしないことは、同僚に「自分は手伝いをするつもりはない」という「使えない人間」宣言をすることに等しい。</p>

<p>このような組織では、コミュニケーションを密にしておかないと、勘違いから「使えない」というレッテルを貼られかねない。</p>

<p><br />
<strong>次回予告</strong>：和魂と洋才とアメリカン・ドリーム</p>

<p><br />
<strong>目次：</strong><br />
第1部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b54e.html">和魂と洋才と温泉のガイジン</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6f74.html">和魂と洋才と医療の崩壊(上)</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html">和魂と洋才と医療の崩壊(下)</a><br />
　　　　和魂と洋才と白羽の矢  <予定><br />
第2部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html">和魂と洋才と「会社」の仕組み</a><br />
　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">和魂と洋才と残業したい人々(上)</a><br />
　　　　和魂と洋才と残業したい人々(下)</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>
<dc:subject>和魂と洋才とユダヤの商人</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-06-12T10:30:55+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">
<title>和魂と洋才と残業したい人々(上)</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html</link>
<description>筆者が海外のオフィスにお邪魔した時、最初に違和感を感じたのは電話だった。オフィス...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>筆者が海外のオフィスにお邪魔した時、最初に違和感を感じたのは電話だった。オフィス中に反響しそうな勢いでビービー鳴っているにもかかわらず、誰もその電話を取ろうとしないのである。こちとら「誰の電話が鳴っていようと、3コール以上通話相手を待たせるべからず」という鉄則を叩き込まれてきたクチだから、これはどうにも落ち着かない。3コール目くらいからソワソワし始め、5回、6回、と心の中で指折り数えてしまう。集中力もへったくらもあったものではない。7コール目くらいになると救いを求めて秘書の方を見るのだが、これまた泰然と無視なさっておられる。どれだけ大物なんだ。さぞかし名のある家の出に違いない。次からはマダムと呼ぼう。</p>

<p>そういう益体もないことを考えている間に、電話のコールは十を数える。こちらは何もしていないのに既に疲労困憊である。流石にこのころになると、周囲も電話のことを気にかけ始めるのだが、その態度は明確に「うっせーな、粘ってないでさっさと切りやがれ」というものであり、この後に及んでもなお誰も受話器を取ろうとしない。君達我慢強すぎ。そこからはもう我慢比べである。勝率(相手が電話を切れば勝ち)は7～8割くらいではなかったか。<br />
 <br />
こういうことが何回か続いた後で、隣の外人に「電話を取らなくてもいいの?今の外線だったよね?」と聞いてみたのだが、「え、でも俺宛ての電話じゃないし」と、質問の意味が分からない様子である。その後の拙い英語でのやりとりをまとめると、「通話相手は(離席中の)彼と話したくて電話をしてきたのであり、俺は彼の仕事を何も知らない。そんな自分が勝手に他人の電話を取るべきではない。ボイスメールはそのためにあるのだから、それを活用すべき」。いや、ごもっとも。<br />
 <br />
しかし、日本人の我々は、他人の電話でもさっさと取って要件を聞いた方が良いケースを知っている。もしかしたら先方は急ぎの用かもしれないし、それは自分でも対応可能なことかもしれない。少なくとも、先方に担当者がいつ戻るかといった情報を伝えることは出来るはずだ。そういう助け合いは、個々には些細なケースであっても、全体で見れば組織のパフォーマンスを高めるということを我々は知っているのである。</p>]]><![CDATA[<p><strong>使われる人々</strong></p>

<p>この手の「助け合い」の欠如は、何も電話に限った話ではない。カフェテリアで新人が慣れないレジ打ちに苦しみ、客が長蛇の列を成しているのに、横で悠々とコーヒーの機械をみがくベテラン店員というのも米英ではよくある光景である。</p>

<p>雇<strong>用関係がジェノア式に上下関係で成り立っている場合、即ち、人を使う側と使われる側が明確に分かれている場合、使われる側同士に助け合う理由がない</strong>。新入りがへまをしても、それは雇用主とそのドジな新入りとの問題であって、自分の給料には関係ない。日本人なら、とっとと新人を使えるようにしてしまわないと自分が大変になる、と考えがちだが、これは「新人のへまのツケは客に回せばよい－責任を取るのは雇い主だ」、という発想が出来ない人間の考え方である。</p>

<p><strong>こういう人間関係は、共同作業を必要とする産業では大きな問題となる</strong>。カフェテリアであれば、出来るのは微妙に不満げな（しかし慣れっこになっている）客の列程度だから、大した問題ではない。しかし、もしこれが工場で起きれば、出来るのは行程の途中で吹き溜まる仕掛品の山か、最悪不良品の山になる。</p>

<p>こういう組織では、中間管理職は激務だ。部下同士のコミュニケーションや仕事のやりくりを期待できない以上、上司は部下のそれぞれの仕事ぶりを逐一チェックし、絶えず仕事の配分を微調整しなければならない。優先順位の低い仕事をしていれば止めさせ、働きすぎの部下がいれば仕事を減らし、場合によっては自分が仕事の一部を引き受けるか、その部署で請け負う仕事量それ自体を減らす。筆者の数少ない経験や伝聞による主観に過ぎないが、日本と比べ、欧米では管理職が部下それぞれの仕事へ強く介入する傾向があるように思う（部下が給料分ちょうどの仕事しかしない以上、部下の時間を最大限有効に活用するのは重要課題なのだ）。また、チームミーティングよりも個別面談を重視するのがセオリーであるらしい。</p>

<p>とはいえ、管理職は万能ではない。調整が失敗すれば仕事は終わらない。日本では、ここらで中島みゆきがマイクを取り、不可能な難事を成し遂げるドラマがスタートするところなのだが、残念ながら欧米にはプロジェクトXは存在しない。出来ないものは出来ないのである。そして導かれる当然の結論。あきらめよう。</p>

<p>その結果、1月2日の仕事始めの日に、「線路工事が時間までに終わらなかったため、○○線は本日全面運休します」というような、ちょっと<a href="http://www.ft.com/cms/s/0/3f917abe-b945-11dc-bb66-0000779fd2ac.html?nclick_check=1">あり得ない出来事</a>が起こるのである。これはイギリスの出来事なのだが、この国では鉄道のメンテナンスのためにクリスマスから年明けまで1週間、結構な数の路線が運休する。それだけでも日本人的にはちょっと信じがたい話だが、2008年の1月1日に終わっているはずの工事が、2日の朝になっても終わらなかったのである。結局、サービスが完全に回復するまでには何日かかかったらしい。この路線を使ってロンドンへ出勤する通勤客は大迷惑である。</p>

<p>この件は流石に新聞沙汰になったので筆者も目にしたのだが、聞けばその2年前にも同じ事があったという。更に聞けば、ロンドンの地下鉄でも、たまに「深夜工事が終わらなかったので丸ノ内線は現在運休しております」みたいなアナウンスが聞けるのだそうだ。平日の朝に、である。</p>

<p><br />
<strong>残業したい人々</strong></p>

<p>この手のあきらめというのは、日本の会社ではあまり見られない現象ではないかと思う。同僚の仕事が遅れていれば手伝い、会社のプロジェクトが追い詰められればみんなで頑張る。頑張れば何でも解決するというわけではないが、実際問題として、ある程度なら何とかなってしまうのである。</p>

<p>日本の会社にあるのが単なる雇用主と被雇用者、使う人と使われる人々の関係だけだとすると、この頑張りというのは理解しがたい行動である。しかも、この頑張りというのはサービス残業で行われたりするのである。で、とにかく何でも3行にまとめたい人々は「日本人の気質を逆手に取られて搾取されている」とか、「日本社会は遅れているので、労働者の権利という概念がまだちゃんと理解されていない」とか、日本人は非合理的であるという前提でモノを語ろうとする。</p>

<p>しかし、<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6f74.html">第1部からの繰り返し</a>になるが、全くの不合理な仕組みが数十年も続くことは考えにくい。<strong>残業する人には、その本人が意識していようと無かろうと、残業する理由があるはず</strong>なのである。そして、組織構造が違うのなら、そこで働く人々に全く異なる「合理的行動」が存在するのは、いかにもありそうなことではないだろうか。</p>

<p>試しに、ある会社にベテラン社員と新人社員の二人がいるケースを考えよう。上の例では、ベテラン社員には新人教育をするインセンティブはなかった。新人のために骨を折ってあげても給料が増えるわけではないし、仕事が出来るようになったところで自分の役に立つわけじゃない。客はそう言う状況に慣れているので、うるさく文句を言ってくることもない。新人が仕事を覚えようとそうでなかろうと、自分は自分のすべきことをするのみだ。こうして、<strong>ジェノア型の組織では、仕事量に明確な上限ができる</strong>。</p>

<p>一方で、仮にこの会社が終身雇用制を敷いていたら、どうなるだろう。新人教育をしても給料が増えない点は変わらない。新人を育てる努力など客観的に測りようがないので、給料には反映させられないのだ。しかし、ベテラン社員にはひとつ新人社員を助ける理由がある。<strong>新人社員を鍛えておけば、後々で自分を助けてくれるかもしれない</strong>ということ。体調が悪いときにシフトを変わってもらえるかもしれないし、自分が管理職になったときに無理を聞いてくれるかもしれない。</p>

<p>更に言うと、期待できるのはこの新人君からの助けだけではない。<strong>同僚が困っているときにさっと手助けが出来る人材。すなわち、使える人材。その評判は組織全体に伝わっていく</strong>。そして、誰だって使える人材には協力したいものだ。仲良くなっておけば、いざという時に助けてもらえるかもしれないのだから。こうして、<strong>このベテラン社員は、新人君に作った「貸し」を、全然違う人から取り立てることが可能になる</strong>。</p>

<p>これは実に効率のいいシステムだ。困ったときにはすぐに助けがほしい。でも、自分が今必要としている人が、実は昔自分が助けてあげた人でした、というような都合のいい話はなかなか無い。<strong>自分が「助けてあげられる人」と「助けてほしい人」とは、往々にして一致しない</strong>ものだ。しかし、<strong>「個々人の評判」が飛び交っているような組織では、このミスマッチが問題にならない。</strong>「借りがある人を助ける」のではなく、「誰かに貸しを作った人を助ける」のだ。そのためには、「誰が誰に助けたのか」という情報、すなわち評判が、皆に共有されている必要がある。こうして、<strong>評判メカニズムは組織内の協力関係を強固なものにしていく</strong>のだ。</p>

<p>とは言え、人助けにも限度というものがある。いくら新人が助けを必要としているからと言って、それに無制限に応える必要があるのだろうか？助け合いと言っても、自分がその見返りを受けられる保証はない。もし自分が明日クビになってしまうなら、または明日にも会社が倒産してしまうなら、その会社での自分の評判には何の価値もないのだ。つまり、<strong>人助けで抱え込むべき仕事量は、会社の経営状態と、そこでの自分の地位の安定度に比例する</strong>。</p>

<p>こうして、<strong>安定的な会社では、助け合いはさらなる助け合いを呼んで、チームワークはどんどん洗練されてゆく</strong>。トヨタの「カイゼン」も、この洗練されたチームワークの一種と言えるのではないかと思う。日本の会社がチームワークを必要とする産業（各種製造業の生産技術、電車等の複雑なインフラの運営、など）に特に強みを発揮するのは、この辺りに理由があるのではないだろうか。</p>

<p>そして同時に、<strong>従業員の仕事量はどんどん増えてゆく</strong>。その結果として残業も増える。サービス残業になるケースも多い。要はただ働きである。しかし、それでも働く理由が彼らにはある。周りの同僚（上司や、場合によっては社長すら含まれる）を助け、自分が使える人材であることを示すこと。そういう評判を作り上げること。それが長期的にはむしろ自分の得になるのだから。</p>

<p>しかし、そうは言っても、皆が皆そこまでポジティブに残業しているわけではない。<strong>「仲間に協力してバリバリ働くことが最適な会社」と、「同僚達に合わせてどこまでも働くことを強要する会社」との間には、実は理論上大した違いはない</strong>のだ。その辺りを、次回に。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>使う側と使われる側が明確に分かれるジェノア型の会社組織では、使われる側の従業員同士には協力し合う理由がない。</p>

<p>一方で、マグレブ型の会社組織では、従業員同士が（管理職も含まれ得る）使い使われる協力関係を築く。このチームワークが日本企業の強み。</p>

<p>ジェノア型の組織では、従業員には給料分以上は働く理由がないが、互いに使い使われるマグレブ型の組織では、どんどん残業してでも同僚のためにそして会社のために働くことが最適になる。</p>

<p></p>

<p><strong>目次：</strong><br />
第1部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b54e.html">和魂と洋才と温泉のガイジン</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6f74.html">和魂と洋才と医療の崩壊(上)</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html">和魂と洋才と医療の崩壊(下)</a><br />
　　　　　和魂と洋才と白羽の矢  <予定><br />
第2部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html">和魂と洋才と「会社」の仕組み</a><br />
　　　　　和魂と洋才と残業したい人々(上)</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>
<dc:subject>和魂と洋才とユダヤの商人</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-05-21T11:44:08+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html">
<title>和魂と洋才と「会社」の仕組み</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html</link>
<description>初めて会った外国人と話す時の&quot;お決まりのネタ&quot;のひとつが、「日本人が働き過ぎるの...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>初めて会った外国人と話す時の"お決まりのネタ"のひとつが、「日本人が働き過ぎるのはなぜか」というものだ。日本では"work for life"ではなく、"life for work"であるらしい、というのは、誇張交じりにせよ海外でもよく知られている。そしてこのネタになると、欧米人は心からの同情を込めて、馬車馬のように働くこの哀れな日本人を慰めてくれるのである。「人生に疲れたら僕の国においで」、と。こう言ってくる時、彼らの頭の中でドナドナの悲しい調べが奏でられていることを筆者は疑わない。<br />
 <br />
この件に限らず、日本人の働き方が欧米のそれとは大分異なっていることはよく知られているし、日本人の側でもそれなりの自覚がある。なぜ日本ではどいつもこいつも長々と残業しているのか? なぜ日本の会社は中途採用に対してこれほど消極的なのか? 成果給はなぜいつまで経っても根付かないのか? 日本の労働組合はなぜ企業と戦おうとしないのか?<br />
 <br />
もちろん、日本人の働き方が悉くネガティブに捉えられているわけではない。日本人の接客態度は間違いなく世界最良の部類だろうし、あの複雑極まる交通システム(特に電車)を完璧に運営することは、他の国々 - 特に、ドイツを除く欧米諸国 - にはほとんど不可能な難事に違いない。そしてなにより、自動車産業に象徴される高い生産効率。だからこそ、良きにつけ悪しきにつけ、日本の企業組織というのは興味と議論の対象になってきたわけだ。</p>

<p>前回まで（とはいえ、最後に書いたのは1年前なのだが）、日本独特の文化が「裏切ったら村八分」という、ある種陰険な評判メカニズムによって律される社会構造の産物であると書いてきた。そして、評判メカニズムは「異邦人」に対して脆弱な仕組みであり、それ故に人の出入りが激しい社会ではこのメカニズムは機能しない。それが温泉や医療システムでの国ごとの違いを生んでいる。</p>

<p>そして、社会が人間同士の関係性で成り立っているように、会社組織もまた突き詰めれば人間関係だ。ならば、日本と欧米との会社構造の違いも、同じ視点から考えることが出来るかもしれない。そこで、このシリーズの第2部として、日本と欧米の会社組織の違い、働き方の違いがどこからくるのか、それを考えていくことにする。今回は、このシリーズのネタ元であるグライフ教授の研究を紹介するところから始めたい（注1）。</p>]]><![CDATA[<p><strong>ギルド社会と水平構造</strong></p>

<p>企業というのは、他人が協力しあう関係のひとつの形だ。そして、協力関係には主に2種類あることは「<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a>」で書いた。ひとつはギルド。<strong>組合仲間とだけ協力し合い、裏切りには村八分で対処する（評判メカニズム）</strong>。マグレブ（北アフリカ近辺）出身で11世紀の地中海を股にかけて活躍したユダヤ商人たちは、この評判メカニズムを基に商売を広げていった。地中海は広い。コンスタンチノープルからスペインまでの取引を、自分一人で取り仕切るのは難しい。品物全てを自分で運んでいたら盗賊のいい餌になるし、旅をしている間はスペインからもコンスタンチノープルからも連絡が取れなくなる。スペインまで旅をしている間に客が逃げてしまっては目も当てられない。それよりも、スペインに協力者を確保して自分はコンスタンチノープルに留まった方が色々と有利だ。例えば、スペインに運んだ品物の代金の回収を依頼できるし、逆に向こうからの品物の代金をコンスタンチノープルで回収してやれば、両方の代金を相殺して金貨を運ぶことなく取引を成立させることが出来る。旅商人スタイルが廃れ、商人が定住を始めたのはこの頃になる。</p>

<p>ただし、全てを独りで執り行う旅商人とは違い、定住型のビジネスはひとつ大きな問題を抱えている。それは、スペインの協力者が本当に協力してくれるか分からないということ。売上金回収の代行を頼んでも、協力者が売上金を持ってドロン、という可能性だってあるのである。協力者との信頼関係が、定住型ビジネスの要となる。そこでユダヤ商人たちが編み出したのが、<strong>「裏切られたらその商人の悪口を手紙に書いて四方八方に送り、その商人を村八分にしてしまう」という戦略</strong>だった（とにかく筆まめな人たちであったらしい）。</p>

<p>このようなシステムには、上下関係が存在しない。実際、グライフ教授の研究では、ユダヤ商人の間には、零細商人が大商人に隷属するといった上下関係は余り見られなかったようだ。仮にコンスタンチノープルの商人が零細で、スペインの商人が大商人であったとしても、コンスタンチノープルの商人はスペインの商人に業務の代行を頼むだろうし、逆もまた然りだ。<strong>マグレブのギルドは持ちつ持たれつの相互協力関係</strong>であったのだ。<br />
 <br />
<strong>このような対等の関係(水平構造)が生まれたのは、ギルドを統べる評判メカニズムが大商人にも零細商人にも同じように機能するから</strong>だ。評判を落として失うのは今の資産ではない。商人が死ぬまでの間に、ギルドに所属することで得られる利益を失うのだ。今貧乏だからといって、"俺には失うものは何もないから、何をやっても良いんだ"とはならない。もしこの若き貧乏商人が"いつかのし上がってやる"という大望を抱いているなら、それは自分の評判を維持する十分な理由になるのである。</p>

<p><br />
<strong>洋才社会と上下関係</strong><br />
 <br />
一方で、地中海でマグレブ商人と覇を競ったジェノアでは、全く違う取引体系が成立した。この時期のジェノアの特徴は爆発的な人口の急上昇にある。1200年から1300年までの100年間に、3万人程度だった人口が10万人にまで拡大しているのである。人の出入りも当然に激しかっただろう。<br />
 <br />
このような<strong>出入りの激しい社会では、評判メカニズムは機能しづらい</strong>。「<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b54e.html">和魂と洋才と温泉のガイジン</a>」でも書いたとおり、すぐにジェノアを出ていってしまう人はジェノアでの自分の評判など気にしない。それに、人口が多くなればなるほど、悪い評判が伝わるまでに時間がかかるようになる。そもそも、自分の知らない人の悪口を聞かされても、いちいち覚えてなどいられないのだ。<br />
 <br />
だが、ジェノアの商人とて長距離取引は多い。海の向こうの取引先との折衝や代金の取り立てを任せられる人材との協力は必要不可欠だ。その協力者の裏切りは死活問題と言って良い。そこでジェノアの商人が取った戦略が、より多くの給料を払うこと。<strong>匿名性の高いジェノアでは評判メカニズムは使えない</strong>。ならば、今十分に高い給料を払うことで"裏切っても大して得にならないな"と思わせるしかないわけだ。または、街のならず者を雇って非合法にお灸を据えるという手もある(注2)。<br />
 <br />
これらの方法に共通するのは、<strong>他人を使うには金にせよ、腕力にせよ、ある種の権力を必要とする</strong>ということ。ここにあるのは<strong>明確な上下関係</strong>である。ジェノアでは、商人同士の助け合いは殆ど見られなかったらしい。彼らは腕を見込んだ貧乏人を使用人として雇い、それなりの報酬を与えて働かせた。どちらかというと、雇い主は金だけを出す金主で、実際に働くのは雇われエージェント、というケースが多かったようだ。</p>

<p>そして、<strong>マグレブ商人の協力関係が暗黙のうちに築かれていたのと違い、ジェノアのそれは「commenda(コンメンダ)」と呼ばれる明確な契約に基づいていた</strong>。厳密には、コンメンダは単純な雇用契約ではなく、合資会社的な性格を持っていたのだが、その辺りは別の機会に触れたい。待ちきれない方は塩野七生の「海の都の物語」を参照して頂きたい。</p>

<p><br />
<strong>和魂の会社、洋才の会社</strong></p>

<p>グライフ教授も指摘していることだが、<strong>ジェノア型の上下関係に基づく組織運営は、その後欧米諸国に広がり、今や世界中のスタンダードになっている</strong>。そもそも、カンパニーという言葉自体が、コンパニア(compagnon、英語ではcompanion)、即ち「パンを共にするもの」という、ラテン語で家族を意味する言葉を語源としているのである。これから何回かに分けて書くつもりだが、このイタリア発祥の組織形態は、間違いなく世界を変えた。</p>

<p>その一方で、マグレブ型の組織というのは、その後余り目立たなくなってゆく。そして、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E8%BA%AB%E9%9B%87%E7%94%A8">20世紀も中頃</a>になって、極東の島国で再発見されることとなった。日本の会社組織はマグレブのそれとどう似ているのか？欧米標準の「カンパニー」と比べ、どんなメリットとデメリットがあるのか？そして、日本の会社は欧米型に変わっていけるのか、その必要があるのか？その辺りの話を、次回以降3～4回に分けて書いていくことにしたい。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>「裏切ったら村八分」というムラ社会的な評判メカニズムは、「持ちつ持たれつ助け合い」という、互いに対等な協力関係を生んだ。</p>

<p>一方で、評判メカニズムが機能しなかったジェノアでは、「資金を持つ金主が高い給料を払って使用人（商人）を雇う」という、明確な上下関係に基づいてビジネスが行われた。</p>

<p>ジェノア型の、明確な契約に基づく上下関係は、その後世界中の会社組織のスタンダードとなった。一方で、日本の会社は必ずしもこのスタンダードを共有していないように見える。</p>

<p><strong>次回予告：</strong>和魂と洋才と残業したい人々</p>

<p><br />
<strong>注1：</strong>興味のある方は、A. Greif 'Institutions and the Path to the Modern Economy', Cambridge University PressのChapter 9、またはA. Greif (1994), “Cultural Beliefs and the Organization of Society: A Historical and Theoretical Reflection on Collectivist and Individualist Societies”, Journal of Political Economy 102, 912-950あたりを参照されたい。前にも書いたが、マグレブとジェノアの話は全面的にグライフ教授の著作から引用している。ただし、何カ所か日本の話へと繋げるために解釈を変更したりしているので、これはグライフ教授の一連の著作の要約にはなっていない点に注意されたい。</p>

<p>もし入手可能であれば、本よりもJournal of Political Economy（ゲーム理論に興味がない方は、Journal of Economic Historyでも似たような論文があるのでそちらを当たられると良い）の論文を読むことを勧める。本の方の英語は余りにも読みづらい。一文が非常に長く、しかも文節が不明確で、悪文と言ってしまいたい位だ。折角の良著なのにあんまりである。編集者仕事しろと言いたい。</p>

<p><strong>注2：</strong>法規制というやり方があることは前にも書いたが、ここでは議論しない。4回くらい先の移民の話でもう少し詳しく書く予定。</p>

<p></p>

<p><strong>目次：</strong><br />
第1部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_b54e.html">和魂と洋才と温泉のガイジン</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_6f74.html">和魂と洋才と医療の崩壊(上)</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html">和魂と洋才と医療の崩壊(下)</a><br />
　　　　　和魂と洋才と白羽の矢  <予定><br />
第2部　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-2bbf.html">和魂と洋才と「会社」の仕組み</a><br />
　　　　　<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-bac7.html">和魂と洋才と残業したい人々(上)</a></p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>
<dc:subject>和魂と洋才とユダヤの商人</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-05-07T10:22:33+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-d6ae.html">
<title>イスラエルのしっぺ返し戦略</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-d6ae.html</link>
<description>The Economistの先週号と今週号の記事を読んでいて「うまいこと言うなぁ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>The Economistの先週号と今週号の記事を読んでいて「うまいこと言うなぁ」と思ったのは、イスラエルの戦略をtit-for-tat戦略であると表現していた点だ。Tit-for-tat戦略というのは、何らかの交渉事において、「とりあえず最初は相手と協力を試み、相手に裏切られたらこちらも裏切り、相手が協力する限りはこちらも協力し続ける」という、ゲーム理論ではおなじみのしっぺ返し戦略の一種だ。単純な割に効果の高い戦略として知られている（注1）。</p>

<p>実のところ、これはイスラエルの「抑止力戦略」そのものだ。敵国から攻撃を受けたら、あらゆる手段を用いてでも、倍返し三倍返しで反撃する。それを学んだ敵国は「イスラエルを攻撃すると後が面倒だ」と、攻撃そのものを控えるようになる。（原則としてこれは自衛のための戦略であるという点に注意。）この観点から見れば、死者の数に著しい不均衡が生じるのは、もともとの戦略が企図したとおりであって驚くには当たらない、となる。「正義と不正義」の釣り合いを決めるのは死者の数ではなく、最初に「裏切った」側だ、というわけだ。</p>

<p>The Economistは、先週号の「<a href="http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12867302">Proportional to what?</a>　何と釣り合ってるって？」で、以下のように書いている。『もししっぺ返し戦略の起点をハマスのロケット弾に求めるなら、イスラエルに自衛の権利があるとすべきだろう。もしこの起点をイスラエル建国当時（1948年）のパレスチナ占領、またはその時のパレスチナ人追放に求めるならば、パレスチナ人の抵抗にこそ正義があると言えるだろう。釣り合いがあろうが無かろうが、この紛争が解決するまで無辜の人々は殺され続ける。』</p>]]><![CDATA[<p><strong>しっぺ返し戦略とその破綻</strong></p>

<p>この戦略を採用したこと自体で、イスラエルが非難されるべきではないだろう。そもそも、我々が享受してきた「核による平和（攻撃してきたら核を打つぞ、という脅しが効いている状態）」というのはこのしっぺ返し戦略の恩恵なのだ。</p>

<p>しかし、「核による平和」と比べ、イスラエルのしっぺ返し戦略はこうも非効率に見えるのはなぜだろうか？ 特に事実上の敗北を喫したヒズボラとの第2次レバノン戦争、2006年のガザ侵攻、そして2009年のガザ再侵攻と、イスラエルの戦争抑止力に翳りがみられることは間違いない。<strong>キューバ危機を乗り越えつつ、米ソの直接対決を防ぎきった核による平和と、紛争の絶えないイスラエルの抑止力戦略は何が違うのだろう</strong>か。これを区別するためには、もう少し詳しくしっぺ返し戦略を解説する必要がありそうだ。</p>

<p>しっぺ返し戦略は、2つのパラメータでその性格が決まる。ひとつは、しっぺ返しを始めるまでにどれだけ耐えるか。そしてもうひとつが、どれだけ激しくしっぺ返しを行うか。考えられる組み合わせは２つ。(a) <strong>ぎりぎりまで我慢するが、始めたらとことんやるという戦略</strong>。または、(b) <strong>攻撃を受けたらその都度それなりに反撃するという戦略</strong>。「滅多に反撃しないが、反撃するときもあくまで控えめに」というのは戦略としては成立しない。敵に舐められるだけだからだ。</p>

<p>核による平和とは、ぎりぎりまで反撃しない代わりに、反撃すると決めたら人類が絶滅するまでやるという、(a)のかなり極端な戦略だ。これによって米ソは直接戦闘をすることが出来なくなり、各地で小規模な代理戦争が起こることになった。実は、<strong>理論上この「ぎりぎりまで我慢して、しっぺ返しは徹底的に」という戦略は、中途半端なしっぺ返しを繰り返すよりも効率がよいことが知られている</strong>（注２）。徹底的なしっぺ返し（核戦争）を各国が恐れることで、結局紛争が回避され、徹底的なしっぺ返しは現実には起こらないからだ。その点、しっぺ返しが中途半端だと、どうしても足元を見られて紛争が起こりやすくなる。無駄な紛争→しっぺ返しの繰り返しがある分だけ、後者は効率が悪いのだ。最悪の場合、しっぺ返し→それに対するしっぺ返し→またそれに対するしっぺ返し・・・と、しっぺ返しの無限連鎖が発生してしまう。The Economistは今のパレスチナの現状をこれに例えたわけだ。</p>

<p>では、イスラエルも非公式ながら核保有国なわけだし、「核による平和」戦略をとればいいじゃないかと思うわけだが、これは実際かなり難しい。イスラエルにヨルダン川西岸とガザ、シリアにヒズボラ、それにイランを同時に叩くだけの戦略核を用意できるのかどうか。ガザに核を落とせばガザ地区は壊滅できるとしても、それがハマスの壊滅に直結するのかどうか。それ以前に、そんな戦略をアメリカが許すかどうか。そして、<strong>しっぺ返しの規模が限定されてしまうと、ちょっとした挑発に対しても律儀に倍返しを行っていくことで、イスラエルへの攻撃の無意味さを知らしめるしか無くなってしまう</strong>。そして、<strong>想像上の「核戦争の恐怖」と比べ、「倍返しによる恐怖」は、敵の兵士国民の死体を積み上げるという、人道上言い訳の効かない生々しいものにならざるを得ない</strong>。</p>

<p>それでも、対国家戦ではこの戦略は有効に機能した。中東戦争以降、犬猿の仲のシリアも含め、イスラエルとアラブ諸国の間には戦争は起こっていない（一応第1次レバノン戦争があるが、あの当時レバノンは既に国家の体を成していなかった）。ところが、<strong>ヒズボラやハマスはこのイスラエルのしっぺ返し戦略を逆に利用する戦略を取るようになる</strong>。ちょっとの挑発に対してもイスラエルが猛反撃を加えてくることは明らかなのだから、適当に挑発を加えて市街戦に引きずり込み、無辜の自国民（子供が特に望ましい）を殺害させる。こうして、国際社会にイスラエルの非道さと、悪魔のイスラエルに立ち向かう勇敢なる我らが組織をアピールし、同情と資金と武器を集めるわけである。ハマス自身、ファタハとの内戦でファタハ高官の息子3人（全員小学生）を蜂の巣にしたり、やりたい放題やっているのだが、そんなことを気に病んでいては悪の巨魁たるイスラエルとは戦えないのである（注３）。</p>

<p>通常の国家であれば、このような究極の焦土戦術は政治的に不可能だ。国家の因って立つ基盤は国民にある。国民が疲弊すれば国家経営は立ちゆかない。しかし、ヒズボラやハマスといった政治組織は、そういうしがらみがあまりない。昔PLOがやったように、都合が悪くなったらあちらこちらの国を渡り歩いて捲土重来を図ればよいのである。<strong>このような組織に対して猛反撃を加えても、将来の抑止には繋がらない</strong>。しっぺ返しのコスト（自国兵士の損失や国際社会の非難）に比べ、得られるものはあまりにも少ないのだ。</p>

<p>こう考えると、建国以来のイスラエルの基本戦略である「抑止力戦略」または「しっぺ返し戦略」は、修正ないしは転換をすべき時期に来ていると言えるだろう。<a href="http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12903394">ニュースを乱読する限り</a>、イスラエルはまだこの戦略に強いこだわりがあるようだ。過去の鮮やかな成功体験がまだ記憶に新しいのだろうし、無理もないとは言える。だが、<strong>しっぺ返し戦略が通用する相手とそうでない相手が居る</strong>と言うことは、そろそろ自覚するべきではないかと思う。</p>

<p><br />
<strong>流血を止めるいくつかの対策</strong></p>

<p>以上のように状況を整理すると、流血を止めるやり方はいくつか考えられる。まず、比較的短期で効果が見込めるのは、<strong>今回の惨事の責任をハマスに問い、然るべき制裁を加えること</strong>。ハマスがイスラエルを挑発する最大の理由はそれによって国際社会からの非難を引き出し、イスラエルに対する立場を改善することにあるのだから、その動機を消し去ってしまえば、イスラエルのしっぺ返し戦略は効果を回復してパレスチナは幾ばくかの安定を取り戻せるはずである。理不尽なほどにイスラエルに有利なのが問題点だが、「どちらの国が正しいかどうかなんて関係ない、とにかく流血を止めろ」とおっしゃる方にはお勧めの策である。</p>

<p>もうひとつは、<strong>イスラエルが両占領地から撤退し、その後の治安が国連軍にゆだねられること。人手不足のイスラエルがパレスチナの失業者を吸収することで、しっぺ返し戦略に頼らずに「パレスチナはイスラエル抜きには経済的に立ちゆかない（逆も同じ）」状況を作り出す</strong>。中長期的にはこちらの方が望ましいと思うが、短期的にはどう考えても実行できそうにないのが難点。イスラエルではリクードがパレスチナ国家など認めないと叫び、ハマスもイスラエルを国家として認めていない。しかもこの両派はそれなりの国民の支持を集めている。このような状況で突然両者に融和しろと言って、はいそうしますと行くなら苦労はないのである。どうしても、と言うなら国連軍に強大な戦力を与えて、両者を徹底的に取り締まるしかない。そして、その手のアプローチがうまくいかないことを国連はガリ総長の時代に身に染みて知っている。それでも、中長期的には、イスラエルはこの方向で戦略を進めていく以外に選択肢はないと思われる。そもそも、これはオルメルト首相が主張している戦略なのである。むしろ議論すべきは、そこへの今後数十年のロードマップをどう描くかと言うことだろうが、正直筆者にはアイデアがない。実務的な対症療法の繰り返しで凌いでいくしかないのかもしれない。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>イスラエルの抑止力戦略はある種のしっぺ返し戦略であり、受けた被害を倍にして返すという「非対称」戦は、十分に合理的である。</p>

<p>ただし、ハマスやヒズボラは倍返しの戦略を逆手にとってある種の焦土戦術を実行し、イスラエルのしっぺ返し戦略を無効化した（自国民を犠牲にして）。その意味では、彼らも十分に合理的。</p>

<p>現状の解決策としては、短期的にはハマスに対する非難と制裁、長期的にはイスラエルの占領地からの完全撤退とそれに伴う融和策くらいしか思いつかない（それすら自信はない）。</p>

<p><br />
前回のエントリーを挙げた後、色々と気になっていくつかの新聞記事やブログを読んだのだが、個人的に一番面白かったのは<a href="http://palestine-heiwa.org/news/200901030223.htm">こちらの文章</a>だ。筆者としては、ただ非人道的行為を批判するだけの記事より、こういう記事をもっと多く読んでみたい気がする。また、<a href="http://www.economist.com/opinion/displayStory.cfm?story_id=12899483&source=hptextfeature">The Economistの今週号の巻頭記事</a>もお勧めしたい。</p>

<p><strong><br />
付録：パレスチナを取り巻く各国の状況について</strong></p>

<p>ついでなので、最近のパレスチナに関わる国々の戦略環境をざっとまとめておきたい。</p>

<p><br />
<strong>ハマス</strong></p>

<p>歴史の長いパレスチナの強硬派グループ。イスラエルを国家として認めておらず、オスロ合意にも強硬に反対し続けていた。ファタハとの血みどろの内戦の果てにガザを占拠（ファタハとは未だに和解の糸口すらつかめない状況：ハマスだけが悪いわけではないが）。以降イスラエルの封鎖が強化されると、イスラエルの基地へトンネルを掘って兵士一人を拉致。2006年のガザ侵攻を招く。一方で内政能力が皆無だったガザ自治政府に代わってガザの秩序を回復させている（The Economistの表現では、「<a href="http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12867310">鉄拳をもって</a>」）。その後の経済封鎖でも暴動は起きなかったようであり、内政能力への評価は高く、２００５年の選挙ではファタハに勝利している。スンニ派の原理主義者集団だが、現在友好関係にあるのはイラン、ヒズボラ、それにシリアと非スンニ派が多い。ちなみにアルカイダからの支持声明もあったのだが、ハマスにとってありがた迷惑だったかどうかは知らない。アラブ諸国はファタハ支持に流れたため、孤立を深めているのが実情。</p>

<p><strong>ファタハ</strong></p>

<p>PLO以来の大派閥。昔から汚職やら強権政治やらの噂が絶えないところで、外交・内政能力については評価が低い。ハマスと違って世俗主義的なので、イスラエルとの関係は良好。というか、アラファト存命時から強硬意見で指導部を突き上げてきたハマスが居なくなったことで、組織としては安定した。今回のガザ侵攻でも、非難声明を出した後は静観を決め込んでいる。というか、ハマスの勢力が削られること自体はファタハにとっては願ったりかなったりの事態なのである。</p>

<p><strong>エジプト</strong></p>

<p>ハマスは元々エジプトの第1野党で原理主義者集団のムスリム同胞団の軍事部門として誕生しているので、エジプト政府がハマスに対しては好意的であろうはずがない。かといって、イスラエルに壊滅させられたハマスの残党がエジプトに流れ込むという事態も避けたいので、とりあえずハマスがガザに押し込められている今の状況は結構都合がいいのではないかと思われる。そんなわけで<a href="http://www.economist.com/world/mideast-africa/displaystory.cfm?story_id=12867310">イスラエルのガザ侵攻も黙認</a>し、イスラエルとハマスの仲介役として積極的に行動。</p>

<p><strong>ヨルダン</strong></p>

<p>国民の7割がパレスチナ人（うち半数は中東戦争後に難民として流入）というお国柄なので、昔からパレスチナ問題に振り回され続ける不幸な国。亡命してきたPLOにやりたい放題引っかき回された後、ぶち切れたフセイン国王がPLOを武力で追放。これが失敗していれば、レバノンのように国の半分をPLOに乗っ取られていたに違いない（PLOはその後レバノンへ向かい、彼の地の不安定化に一役買った）。その後重荷でしかないヨルダン川西岸地帯の領有権を放棄し、以後パレスチナ・イスラエル双方と等距離外交を展開している。</p>

<p><strong>イラン</strong></p>

<p>ファタハと並び、今回のガザ侵攻でもっとも得をした国。イスラエルのイラン核施設爆撃計画がどれだけ進行していたのかは知らないが、今回の侵攻で計画が大きく遅れたことは間違いない。ついでに国際社会の非難もそらすことに成功。貴重な時間を稼いでいる。</p>

<p><strong>シリア</strong></p>

<p>不倶戴天の敵のそのまた敵であるハマスやヒズボラには過去色々と援助をしてきているが、ハマスの母体ムスリム同胞団には昔首都で散々テロ活動を行われた経緯もあったりする。北朝鮮や旧イラクとも関係が深く、正直中東でも孤立した存在。昨年仏大統領サルコジの仲介でレバノンと国交正常化への道筋をつけ、今後の路線変更が期待されている。今回のガザ侵攻では、逆にサルコジからハマスの懐柔を頼まれているのだが、成果が上がっているという話は聞かない。</p>

<p><strong>ヒズボラ</strong></p>

<p>南レバノンを占拠し、事実上独立している。レバノンの情勢が不安定を極めているため、たびたびそれに乗じてベイルートを攻撃したりしている。現在はアラブ諸国の調停を受け入れてレバノンの挙国一致体制の一部を担っている。本来であれば今こそ北からイスラエルに砲撃を加えて、イスラエルに二正面作戦を強いるべきタイミングだと思うのだが、申し訳のような砲撃を加えた後は沈黙。「2006年のレバノン侵攻の痛手は実は大きかったのでは」などと、今頃になって言われはじめているが、単にレバノン内部のもめ事で忙しいだけかもしれない。</p>

<p><br />
<strong>（注１）</strong>厳密には、TFT戦略と、一般的なしっぺ返し戦略（trigger strategy）とは別物だが、以下では特に区別せずに議論を進める。</p>

<p><strong>（注２）</strong>もちろん、ゲームの条件によるのだが。ついでに書くと、しっぺ返し戦略よりも効率の良い戦略の存在もゲーム理論では研究されているが、ここでの議論には応用できないので特に触れない。興味のある方は適宜テキストを参照されたい(pairwise full-rankあたり)。</p>

<p><strong>（注３）</strong>念のために書くと、ファタハだってハマスに対して似たようなことをやっている。ハマスが一方的に悪いわけではない。<br />
</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-01-12T13:30:36+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/the-economist-0.html">
<title>今週のThe Economist: ガザ：正当なこと、そうでないこと</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/the-economist-0.html</link>
<description>原題：Israel’s war in Gaza: The rights and ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>原題：Israel’s war in Gaza: The rights and wrongs</p>

<p>明けましておめでとうございます。更新が大きく遅れてごめんなさい・・・という話は、最近毎回書いているような気がするのでサブブログの方に譲ることにします。今年はもう少し頻繁に更新できるといいのですが。</p>

<p>さて。ガザが大変なことになっている。この件がしんどいのは、誰に聞いても現実的な解決策が出てこないという点だ。そうなると、「イスラエルの行動の何が間違っていて、どうすべきだったのか」という筋での議論は著しく困難になる。何を言っても説得力がないのだからしょうがない。で、その代わりに、これは戦争ではなく虐殺だ、<a href="http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20090105AS1K0500405012009.html">人道上看過できない</a>、<a href="http://www.nytimes.com/2009/01/07/world/middleeast/07military.html?partner=rss&emc=rss">学校に砲撃を加えたことで国際世論を完全に敵に回した</a>、と言った半ば情緒的な議論が増えることになる。</p>

<p>別にこういう意見を批判するわけではない。パレスチナの側からみればこれは確実に虐殺であり、人道上問題があるのも明白であり、当初はある程度抑え気味に報道していた欧米のマスメディアが、地上戦開始以降イスラエル非難を強めているのも筆者の見る限りでは事実なのだ（それはそれとして、イスラエル内部での意志決定プロセスに問題があるかも、と指摘したこの<a href="http://www.heraldtribune.com/article/20090107/ZNYT03/901073013?Title=For_Israel__2006_Lessons_but_Old_Pitfalls">NYTimesの記事</a>は結構面白い。どこまで信憑性があるのかは不明だが）。</p>

<p>だが、それだからこそ、そういう情緒的な議論に流れずに踏ん張ったThe Economistの以下の記事は価値があると思う。わずか1ページのまとめでここまでバランス良く書き上げるのは簡単なことではない。こういう記事こそが多く読まれるべきだと思うのだが、残念ながらこの記事の翻訳はどこにも見あたらない。そこで、以下で少し紹介してみることにしたい。普段は「今週のEconomist」と書きつつ7割は筆者の勝手な私見を垂れ流しているのだが、今回はもう少し引用多めで（そもそも、自分自身も不案内な分野なので、垂れ流すほどの私見もない）。</p>]]><![CDATA[<p>『ガザ侵攻の規模と残忍さは衝撃的であり、非戦闘員の傷つく姿に我々は心を切り裂かれた。これは実に嘆かわしいことだが、しかしそれでも、ハマスのロケット弾攻撃に対処すべく軍事手段へと訴えたイスラエルの選択は驚くには当たらない。この戦争は長い時間をかけて作られてきたのだ。』</p>

<p>『イスラエルがガザから入植民と兵士を撤収させてから3年、ガザの複数のパレスチナ人グループは数千もの原始的なロケット弾と迫撃砲をイスラエル本土に打ち込んできた。この攻撃で死んだイスラエル人はごくわずかだったが、周辺の南イスラエルの生活は脅かされてきた。ハマスがエジプトの要請を無視して6ヶ月間の停戦協定の更新をしないと宣言した12月19日から、イスラエルが空爆を開始した27日までの8日間で、彼らは約300発のロケット弾を発射した。この意味では、「ハマスがイスラエルを挑発したのだ」と言って良い。』</p>

<p>『ガザ撤退からの3年で、迫撃弾で殺されたイスラエル人なんて10人もいないじゃないか、と対岸から言うのは容易いことだ。だがまさにイスラエルがそうであるように、選挙を控えた政府が、毎日街へと浴びせかけられる迫撃弾をそのまま放置することなど出来はしない。例え対抗策にまるで効果がなかったとしても。7月にイスラエルを訪れたオバマ次期大統領はこう言った。「もし誰かが娘二人の眠る我が家をロケット弾で狙っているとしたら、私はそれを阻止するためにあらゆる手段を執るだろう。イスラエルもそれと同じ事をすることになるのだろう。」』</p>

<p>以下、全文訳になってしまうと色々問題がありそうなので少し省略する（出来ればしたいところなのだが）。ハマスがより強力な武器を密輸しており、これがイスラエルには看過できないということを指摘している。イランから強力な武器を供与されて今も健在なヒズボラのような組織を、ガザにもう一つ成立させるわけにはいかないからだ。</p>

<p>『しかし、イスラエルもまた世界中で激発する憤慨に驚くべきではない。これは単にF-16を飛ばしている側の国を人々が応援することなど滅多にない、というだけの理由ではない。一般的に言って、戦争を正当化するには3つの条件が必要になる。戦争に至る前に、それ以外の方法で自国防衛を図る努力を十分に行っていること。攻撃の規模が戦略目標と釣り合っていること。そして戦略目標を達成出来る可能性が十分にあること。これら全ての点において、イスラエルの因って立つ主張はぐらついている。』</p>

<p>『イスラエルがガザからの砲撃に長いこと耐えてきたのは事実だ。だが、砲撃を止める手段が他になかったといえるかどうかは疑問だ。イスラエルのガザ地域に関する唯一の要望が国境付近の安寧であった、とはとても言えないのだから。イスラエルは原理主義的なハマスの勢力を削ぐために、比較的柔軟で世俗的なファタハの治めるヨルダン川西岸地帯への援助を強化する一方で、ガザに対しては経済封鎖を敷いてきた。今は期限切れとなってしまった停戦協定の間ですら、イスラエルは人道援助のほとんどをガザの国境で差し止めてきた。つまり、ハマスがイスラエルを挑発したのが事実だとしても、ハマスもまた「挑発したのはイスラエルの方だ」という資格がある。もしイスラエルが国境封鎖を解いていたなら、ハマスは恐らく停戦協定の延長に同意していただろう。実際、ある見解では、ハマスが戦闘を再開したのは、国境の開放を条件に織り込んだ上での停戦協定をイスラエルに強いるためであるとしている。』</p>

<p>『攻撃規模と目標の釣り合いについては数字が語ってくれる－ある程度は。最初の3日間で、パレスチナ人は350人が殺された一方、イスラエルの死者はわずかに4名だった。常識から言っても戦則から言っても、「より多くの敵を殺しつつ、より多くの味方を生かすべし」という原則を守ったことでイスラエルが非難される謂われはない。こんな非対称戦を選んだハマスが愚かなのである。しかしパレスチナ人の死者には7人の非戦闘員が含まれており、それ以外も兵士と言うよりは警察官と言うべき人間が多く含まれていた。アフガンとイラクに展開する西洋軍とその敵との双方が遥かに多くの非戦闘員を殺害してきているとは言え、イスラエルは非戦闘員の殺害を最小にとどめる努力をすべきだ。爆撃を加えているパレスチナ人は、今後も永遠に隣人なのだから。』</p>

<p>『そして最後の点が攻撃の効果についてだ。イスラエルは当初、（その本心としてはハマスを打倒したいにせよ）現在の作戦はハマスの国境近辺での砲撃を止めさせることを目標としている、と言明した。しかしイスラエルが2006年にレバノンで学んだように、これは簡単なことではない。ヒズボラがそうであったように、ハマスはイスラエルに抵抗することで支持と戦力とを集めてきた。彼らが膝を折ることは考えにくい。ハマスは例えどんな被害を受けようと、イスラエルをガザの入り組んだ市街と難民キャンプでの厄介な市街戦に引きずり込むまで砲撃を止めはしないだろう。ヒズボラがそうしたように。』</p>

<p>『イスラエルはこれほど早くレバノンでの教訓を忘れてしまったのだろうか？それはない。言うなれば、今回のハマスに対する一連の作戦はヒズボラに対してした失策の挽回を企図している。イランに核保有の兆しがあり、そしてヒズボラとガザへの影響力を拡大しつつある中で、イスラエルはこのユダヤ人国家がまだ闘い、そして勝利を収めることが出来る国家であることを今一度示さなければならない。まさにこの理由から、長期戦になると彼ら自身が言及しているとしても、彼らは即時停戦に対して実際には柔軟な態度を取るだろう。主要な攻撃目標は既に空爆で破壊されている。これ以上の軍事的成果を得るのは困難だ。もしハマスが本当に砲撃を中止するのなら、現時点での停戦はイスラエルの軍事的抑止力のリハビリが成功した証として選挙民にアピールすることが出来る』</p>

<p>以下更に続くが、訳は控える。結局はアメリカの仲介が不可欠であること、ファタハのアッバス大統領はパレスチナ国家樹立のためにイスラエルとの対話を続けているが、パレスチナ自体が分裂しており、しかもハマスはイスラエルを国家として認めてもいないことなどを挙げ、楽観悲観を織り交ぜて文章を締めている。最初に書いたように、この件で「現実的で人道的で平和的な解決策」を立案できる人間は一人もいないのだからこれはしょうがないのだが。</p>

<p><strong>為政者にとっての正当とは何か</strong></p>

<p>最初にも書いたとおり、そしてエコノミスト誌も指摘するとおり、イスラエルの行動は国際社会からの非難に値する。だが、少し視点を変えて、イスラエルの為政者が為政者たり得ているかを問うたとき、彼らの評価はどうなるのだろうか。為政者の基本的な責任は国民の衣食住、そして安全の保証にある。そして、為政者が他国の利益を尊重するのは、そうすることで回り回って自国民の利益になるときだけだ。ロケット弾が毎日飛来し、何分の一かの確率で自国民が殺害される恐れがある。一方で、開戦すれば敵国民が1000人死ぬ。単純化してこの2つだけを天秤にかけたとき、「人道上の理由」から開戦を思いとどまるという選択肢は為政者として正しいのだろうか（注）。もっと踏み込んで書くと、敵国民を危険にさらしたイスラエル首脳部と、自国民を危険にさらしたハマス首脳部は、どちらがより為政者として不適格であり、どちらがより大きな非難に値するのだろうか。</p>

<p>繰り返し書くが、そうであれ、無関係な第三者たる我々には「人道上の理由」でイスラエルを安全な対岸から非難することが出来る。だが、エコノミスト誌も書いているとおり、それが安易な非難であることもまた確かなのではないかと思う。</p>

<p><br />
<strong>（注）</strong>もちろん、話をややこしくするのは簡単だ。国際社会からの非難、それに伴う外交上の困難はNYTimesも指摘していた。ただし、現時点でイスラエルは外交上特に失った物はないこともまた確かだ。とりあえずアメリカさえキープしておけば国連は無力化できるし、アラブについてはエジプトと連絡を密にしておけばとりあえずは何とかなる。むしろ、エコノミスト誌が指摘するとおりイランへの牽制になるならば、差し引きはプラスかもしれない。</p>

<p>国内政治に目を向ければ、支持率トップを走る右翼政党リクードの党首ネタニヤフはパレスチナ国家を認めないと主張してシャロン首相と激しい政争を繰り広げた人物な訳で、彼が首相になればせっかくうまくいきかけているヨルダン川西岸地帯の動静も危うくなる。それを防ぐためにも、オルメルト首相は自分が自国民を護る指導者であることを国民に見せつけなければならない（首相自身は引退を表明していたはずだが、NYTによれば、三頭体制を形成する外相のリブニ氏と前Chief of staffのバラク氏は続投を望んでいるのだそうである。）。<br />
</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2009-01-08T11:59:39+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html">
<title>和魂と洋才と医療の崩壊（下）</title>
<link>http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_fab1.html</link>
<description>随分間が開いてしまったが、前回と前々回で、日本社会の評判メカニズムが機能しなくな...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>随分間が開いてしまったが、前回と前々回で、日本社会の評判メカニズムが機能しなくなると、社会のあちこち（温泉であったり、救急医療だったり）が綻んでいく、と書いた。しかし、ここで話を〆てしまうと、結局「昔は良かった」というご老人の繰言と大差がなくなってしまう。そこで今回は、前回に引き続き医療を例に取りながら「じゃぁ、どんなシステムならうまくいくのか？」ということを考えてみたい。</p>]]><![CDATA[<p><a href="http://www.cabrain.net/news/article/newsId/14121.html">こちら</a>の記事によると、医療サービスで未払いが多いのは産科と外科（救急）なのだそうである。理由としては所持金不足や経済的理由（所得不足）が挙げられているのだが、本来所持金不足は理由になるわけがない。経済的に困窮していないのであれば、手持ちのお金が足りないなら後で払えばいいのである。これは単に借金を踏み倒しているだけのことだ。</p>

<p>とりあえず産科に議論を絞ると、ひとつの理由として考えられるのは、産科と患者とはほとんどの場合「一期一会」だということだ。人生で３回以上出産をする人は日本では少ない。つまり、世話になった産科の先生の心象が悪化したところで、人生で彼・彼女と再び出会う可能性は非常に低いわけで、これはやりたい放題が保証されているに等しい。一般の内科でこれが起こりにくいのは、「今健康を崩して病院へ行く」ことは「将来も同じ病院を利用する可能性がむしろ高まる」から。出産すればもう一度出産する確率が低下する産科とは真逆なのだ。更に、産科に比べて内科の診療費は低いので、診療費を踏み倒すべく引越しをする、という戦略がうまくいかないということもあるだろう。</p>

<p>つまり、<strong>産科医療では、恐らく銭湯や救急医療以上に、評判メカニズムは機能しない</strong>。とすれば、<strong>評判メカニズムに支えられた性善説的な行動を患者に期待すること自体が間違っている</strong>ということになる。「正しいやり方で」産科を利用しない妊産婦を最近は「野良産婦」と呼ぶらしいが、自分の期待するやり方で産科サービスを利用してくれない人たちを非難しても意味がない。彼らには彼らの道理があるのだから。まずは彼らの道理が存在することを認め、それを前提にサービスの在り様を再検討する必要がある。<strong>病院関係者はギルド社会的な患者への期待を捨て、洋才社会の知恵を借りて医療システムを立て直すしかない</strong>のではないだろうか。</p>

<p><strong><br />
洋才型アプローチその１：サービスの有料化</strong></p>

<p>さて、<strong>需要サイドである患者の側でギルド型の「自制」が働かない場合、ユーザーの医療サービスの使い方をコントロールする責任は供給側たる病院（厚生労働省なども含む）に移る</strong>（注１）。自制の効かない（自称）患者が大挙病院に殺到すれば、医療サービスは確実に崩壊する。人的にも金銭的にも、医療資源には限界があるのだから。自然、サービスのコントロールとは、この限られた医療資源をどのように分配すべきかということになる。</p>

<p>言うまでもなく、この手の「限られた資源」を効率よく分配するひとつの方法は価格メカニズムに頼るやり方だ。経済学お得意のやり方である。「患者がどれだけのお金を喜んで支払えるか」は、症状の深刻さを測る上で非常に有用なパラメータだ。特に、「それほど深刻な症状はないけど、タダならとりあえず救急車を呼んでおこうかな」と言った、不届きな連中を排除する上では極めて有効といってよい。</p>

<p>アメリカを含め、多くの国で採用されている救急車の有料化はこの理屈の上で実行されている。当然、産科医療の問題もこのアプローチで改善することは可能だ。まず、未払いの問題は前金制で解決する。患者の要求が厳しすぎる？サービスを松竹梅とかに分けて、料金別に利用可能なサービスを設定してしまえばよい。もしその患者が本当にあらゆるリスクを避けて（可能な限り）安全な出産を行いたいと思うなら、彼らは喜んでそのお金を払うはずである。<strong>有料化は患者の「本当の気持ち」を洗い出す</strong>。</p>

<p>と、ここまで読んでストレスを感じた人は結構多いかもしれない。「所得が足りなくてその金を支払えない人はどうすればよいのか。金を払えない人は自宅で何のサポートも受けずに産めとでも言うつもりか」と。結論から言うと、<strong>最適な医療システムを考える上で、「低所得者をどうするか」という点を考慮する必要はない</strong>。医療システムを考える上での要点は「必要な人に適切な医療サービスをどう提供するか」だけだ。有料化で低所得者が割を食うならば、そしてそれが社会的に問題であるならば、それに対処するのは政府の責任である。<strong>低所得者を救う責任は病院にはなく政府にこそあるのだという、ごく当たり前の視点</strong>を昨今の医療問題の議論であまり見かけないように思うのは筆者の気のせいだろうか。</p>

<p>もし妊婦の中に低所得で困っている人がいるならば（そもそも出産は多くの場合まだ所得の低い20代30代で行われるわけで、そういう人は当然多い）、彼らは（その利益を代弁する人を含め）政府にこそその要求を突きつけるべきなのだ。バウチャー制で政府が出産費を肩代わりするとか、方法はいくらでもある。納税者が、少子化の問題を少しでも軽減したいとか、出産の安全性は当人の所得に関わらず保証されるべきだと考えるならば、彼らは喜んで税金を払うはずである。<strong>有料化のメリットは、システムの効率性と、社会福祉の向上（所得格差の是正を含む）を完全に別個の問題として考えられる点にある</strong>、と言っても良い。</p>

<p><strong><br />
洋才型アプローチその2：日常的トリアージ</strong></p>

<p><strong>医療システムの効率とは、「限られた医療資源の最適な分配」のこと</strong>だ、と上で書いた。言い方を変えれば、医療サービスを使う必要のない人間をいかに排除するか、が問題なわけだ。ギルド型の社会では「不適切な行動を取ると村八分にするぞ」という脅しで、アメリカでは「サービスを使いたいなら金を払え」という仕組みで、それぞれ「不適切な需要」をコントロールしている。</p>

<p>これらのアプローチはひとつの回答ではあるが、唯一の回答ではない。<strong>有料化のひとつの問題点は、「患者は自分の病状の深刻さを自分では理解できるとは限らない」という点</strong>にある。患者が自分の症状を過大評価してしまう可能性もあるし、過小評価してしまうこともある。どちらも、医療システムの効率を損なう可能性がある。</p>

<p>イギリスのやり方はこの点において優れている。<strong>イギリスでは、誰が「今」医療サービスを必要としているかは病院が判断する</strong>。<strong>緊急を要する患者が優先され、それ以外の患者は後回し</strong>になる。<strong>その代わり、医療は原則として無料</strong>（薬代などは有料らしい）。医療費によって不適切な需要を排除する必要がないからだ。専門医の時間を無駄にしないため、患者はまずGP(General Practitioner)と呼ばれる診療所に行くことを要求される。そこで重症であるという判断が下されると、初めて専門病院が紹介されるわけだ。救急車についてもこの原則が適用される。救急車も無料だが、その<a href="http://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/medi/europe/uk.html">患者を受け入れるかどうかは救急隊員が判断する</a>。隊員が軽症だと判断したら、救急車には乗れない。</p>

<p>なんだか良さそうな仕組みに見えただろうか。ユーザー側から見ると、この仕組みは有料化と違って個々人の追加負担がなく、また納税者の一人として「どこまで妊婦にお金を払うか」といった選択を突きつけられることもないため、比較的受け入れられやすい。しかし、Googleで「イギリス　医療」で検索をかけてみてほしい。出るわ出るわ批判と不満の山。</p>

<p>特に多いのが、「病気にかかったのに延々と待たされる」というものだ。そもそも<strong>重症患者以外は後回しにするのがシステムの大前提なので、比較的軽症であれば当然待たされる</strong>ことになるわけだが、問題なのはその期間である。<a href="http://www.kingsfund.org.uk/publications/briefings/figures/18week_waiting.html">こちらのページ</a>を見ると、2000年の段階で4分の1の患者が実に半年以上待たされている。1年を超えて待たされた患者すら数千人はいたというから恐れ入る。ブレア政権以降の医療改革の進展で待ち時間はだいぶ改善されたが（<strong>過去5年間で医療関連予算は倍増</strong>している）、平均で2ヶ月以上、最長で半年以内と言ったところで、これをもって問題が解決されたといっていいのかどうか。そもそも、肝心の救急医療ですら、5年前までは4分の1の患者が4時間以上待たされている。現在は4時間以上待たされるケースはほぼなくなったようだが、これも4時間以内ならいいのかと言えば、そうはいえないだろう。</p>

<p>たとえ無事に入院できたとしても、病院側による優先順位の設定は当然軋轢を生む。適当に検索をかけて見つけた記事だが、<a href="http://www.thisislondon.co.uk/standard/article-23423256-details/13+London+hospitals+named+among+worst+for+childbirth/article.do">こちら</a>では産婦の4分の1が出産時に一人で放置された経験があるというアンケート調査が紹介されている。プライオリティを明確にするという原則がある以上、この手の問題は避けて通れない。もちろん、高い金を払って保険対象外の医療サービスを受けることは出来るが、出産関連で200万円くらいかかるのだそうだ。</p>

<p>そもそも、<strong>患者の分別を病院側で全て行うこの仕組みは病院にかかる負担が大きい</strong>。今後更に医療費をつぎ込んだとしても、「病院にいけば治療してもらえる」日本のような仕組みは望むべくもないだろう。</p>

<p><br />
<strong>それぞれの社会のそれぞれの制度</strong></p>

<p>だいぶ違って見えるアメリカ型とイギリス型の医療制度だが、ひとつの共通点がある。<strong>医療サービスを受けるべき患者と、そうでない患者とを分別する仕組みがある</strong>ということ。そして、<strong>その仕組みにはコストがかかる</strong>ということ。前者の場合は所得格差を是正する政策を新たに構築する必要がある（脚注に詳しく書いたが、患者の分別を適切に行いつつ、低所得者にも利用可能にするには、かなり政治的に受け入れられがたい政策を必要とする）。後者の場合は長大な待ち時間に耐えなければならない。</p>

<p>「<a href="http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_7cef.html">和魂と洋才とユダヤの商人</a>」で書いたように、<strong>ギルド型社会のひとつのメリットはこれらの社会的なコストがかからないという点</strong>にある。日本社会はそれゆえに「効率が高い」社会なのだ。または、社会だった。<strong>もし日本のムラ社会が消滅しつつあるなら、我々は「低コストで手厚い医療サービス」という理想をあきらめなければならない</strong>。これは過去においては決して幻想ではなかったが、我々の社会構造が変化してしまったのならば、もはや追い求めてはいけない幻なのである。</p>

<p>次回、補論として、幻として消えそうなギルド社会型のシステムを取り戻す方法を考えてみたい。</p>

<p><br />
<strong>本日のまとめ</strong></p>

<p>ギルド型社会では、患者自身が「自分が医療サービスを受けるべきかどうか」を判断する。</p>

<p>評判メカニズムが機能しない社会では、有料化なり病院サイドの「トリアージ」なりで、適切な患者を分別せねばならない。</p>

<p>このような社会では、今までの日本以上に医療サービスには（金銭・非金銭両面での）コストがかかるようになる。</p>

<p><br />
*イギリスについては<a href="http://en.wikipedia.org/wiki/National_Health_Service_%28England%29">英語版のウィキペディア</a>を参考にした。なかなかの労作なので興味のある方には一読をお勧めしたい。</p>

<p><br />
<strong>注１：</strong>正確に言えば、ギルド型の社会では、サービスの使い方をコントロールするのは病院ではなく、ムラ社会それ自体ということになる。このルールは明文化されるものではなく、美意識とかモラルという言葉で表現されることが多い。</p>

<p><strong>注2：</strong>上では産科の例だけを挙げて所得格差の問題は別途解決可能だ、と書いた。ただし、より幅広く医療サービス全体を考えるなら、これはバウチャーだけで解決できるような問題ではない。例えば、救急車利用券のようなバウチャーを配ることには意味がない。バウチャーは特定のサービスを利用してもらうために配るものであって、使ってもらいたくないサービスのバウチャーを配るのは逆効果以外の何者でもない。むしろ、低所得者にはいざというときの救急車代として現金をこそ配るべきなのだ。彼らがそのお金を救急車ではなく、それ以外のサービスに使ってくれたほうが、社会の効率は高まるのだから。もし彼らがそのお金を浪費したのなら、救急車を使わずに野たれ死んでもらわなければならない。または、バウチャーを「使わなかったら換金可能」にしておく、という手もある（こうすることで浪費を防ぐことが出来る）。どちらにせよ、納税者の負担は高まる。さもなければ、低所得者の負担が高まる。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>経済・政治・国際</dc:subject>
<dc:subject>和魂と洋才とユダヤの商人</dc:subject>

<dc:creator>馬車馬</dc:creator>
<dc:date>2008-03-25T08:43:50+09:00</dc:date>
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